●坐禅会




昭和10年 佛日寺摂心 澤木興道老大師(中央)



早朝坐禅

 日時:毎月第2日曜日 午前6時〜7時 時間厳守 途中入退堂禁止

 会場:開山堂(定員7名)、本堂(定員15名程)

  ※現在コロナ禍のため、開山堂2人、本堂10名としています。

 日程:
     5時45分 ストレッチ(自由参加)      6時     般若心経読経 了後 坐禅開始
     6時40分 茶礼(御茶と簡単なお話)
     7時     解散

 お話:「知有底人」

 服装:足を組みますので、ゆったりとしたものをお召ください。
     坐禅中は基本的に上着・靴下を脱いで頂きます。

 問合:072-753-2567

 ※初心者の方も気楽にお越しください。
  椅子坐禅、正座も可能ですので無理なさらずに仰って下さい。
  坐り方の説明を受けられる方は、15分程前に入山してその旨をお伝えください。




開山堂外観


本堂外観


開山堂内部


本堂内部





『坐禅要訣』


※昭和10年佛日寺摂心(集中坐禅修行)にて、澤木興道老大師(昭和を代表する禅僧)によってなされた坐禅講話を抜粋したもの。早朝坐禅会で読誦しています。


 1 坐禅は龍の蟠るが如く、颯爽たる姿勢と凛々たる気迫が篭もっていなければならぬ。

 2 坐禅は乾坤宇宙に只一人の境地にあって徹底自己を究明する事である。

 3 名聞利養の為でもなく、霊験果報を願う為でもない。何物かを期待する心を一切振り捨てた坐禅でなければならなぬ。

 4 此身今生に度せずんば更に何れの生に向かってか此身を度せんとの熱烈な求道心に燃え、一分一秒をも惜しんで全身心を
   坐禅の一行に投げ込まねばならぬ。

 5 悟を求めず迷を払はず、八万四千の雑念が起滅してもするに打ち任せて嫌はず追はず、鏡に影の映ると思ひ、一切を取合
   はぬ事が肝要である。

 6 坐禅は正気でなければならぬ。作り物であってはならぬ。 

 7 坐禅は勇壯でなければならぬ。威風堂々あたりを払ふものでなければならぬ。

 8 坐禅は人に見せびらかすものではない。自分が自分にするものである。自分だけのものである。しみじみと自己になりきる
   ことである。

 9 本当に自己を掴んで充ち満ちているときは、心機天地の間に充満しているから、臨機応変、一を以て万に当たることが出来
   る。

 10 自分の生活が本当に自分自身になっていれば、その時、その所に全自己が露れる。どう動いてもその瞬間の完全がある。

 11 禅は現在を充実していくことである。今日を見失はぬ、此の所を見失はぬ、今を見失はぬ、自己を見失はぬと言うやうに、
    全生活を一歩の浮き足なしに踏みしめて行くことである。今此の所でたとへ息が切れても、少しも悔いのない生活をし
    ていくことである。

 12 禅はその物になりきる事である。一挙手、一投足の上に真実の道を体現し、一切時、一切所に於いて全自己を投入してそ
    の物になり切ることである。生活の持ち場持ち場に全身全霊を打ち込む事である。


「心を無にする」


 佛日寺では、毎月第2日曜の朝6時から初心者向きの坐禅会をしている。その中で常に心を無にすることの大切さを、次のような例を示してお話ししている。
 佛日寺には、小さな畑がある。一年中、仏様にお供えする花を種から育てているが、つい横着をして雑草が生ているのにもかかわらず、十分な除草もしないで花の種を蒔くことがある。すると雑草はどんどん伸びてくるが、花の芽はいっこうに出てこない。つまり雑草の勢いに負けてしまっているである。花の種を蒔く時は、十分な除草、それも目に見えるところの草の茎や葉ではなく、土に隠れてる根までも除かねばならない。除草なくして美しい花の芽は出ないのである。また仮に芽をだしても、花を咲かせるまでには、到底至らないのである。このように雑草を根こそぎ抜き去った何もないところにこそ、種を蒔き芽を出し花を咲かせることができるものである。
 近頃、全国津々浦々、上水道が敷設されたので井戸が使われなくなったが、嘗て井戸水は、飲料水になったり洗濯物を洗ったりして、生活に不可欠なものであった。今も佛日寺の境内に有る水道は井戸水っを使ってるので、水温が一定しているために冬は暖かく夏は冷たいとあって、皆さんに大変喜んでいただいている。しかし、この水も大雨が降ったりすると、水の量が急に増え、水の色も濁る。すると飲み水にならないために生活の智慧と言うのか、折角、溜った水を汲み上げ、惜しげもなく捨ててしまう。すっかり汲み上げてしまうと、後には透き徹った清らかな水が満々と湧き出るのである。このように濁った水を捨てきってこそ、清らかな水が湧き出るものである。
 池田市には「呉春」という名酒がある。酒豪の間では美味しい酒と持て囃されているが、いくら美味しい酒であっても、つまらないものをお腹一杯食べていたら、美酒を味わうことができないのである。 お腹が満腹では折角の酒が美味しく 飲めないのである。また汗を流した後の冷えたビールの美味しさは格別で、汗を流したものにしかその味は解らないのである。  日頃からご馳走ばかり食べている人は、口が肥えているために少々のご馳走を口にしても美味しく感じなくなってしまっている。日常の食生活は一汁一菜の粗食にして、 時偶ご馳走をいただくと実に美味しく感じるものである。このように満腹でないからこそ、美酒や冷えたビールやご馳走が美味しくいただけるものなのである。
 6月・7月は、梅雨で毎日鬱陶しい日が続く。大空には雨雲がどんよりと垂れ籠めているが、梅雨明け宣言とともに青く透き徹った夏空に一変する。しかし、白い入道雲がもくもくと勢いよく出てくる。時には夕立になったり、雷をピカピカゴロゴロと轟かしたりして、なかなかこの夏空は落ち着かない。夏を過ぎ秋になると、この大空も雲一つない宇宙の果てまで見える透き徹った青空になる。このようにどんよりとした雨雲や、もくもくと湧き出た入道雲を吹き払ってこそ、秋の透き徹った大空が美しいというものである。
 最後にもう一つ例を挙げて終わりにしたい。グラスに泥水を入れて掻き混ぜると、泥水がグラスの中でぐるぐる回っているが、暫くすると水の動きも止まり、少しずつ水の汚れも澄んでくる。心も静かにしていると澄んでくるものである。しかし、また掻き混ぜると、下に沈んでいた泥が浮き上がって濁ってくるが、暫くするとまた澄んでくるのである。まるで私達の心のようである。更にこの水を濾過することによって、濁りはすっかり無くなる。しかし、この濾過した透き徹った水も、まだ目に見えぬ不純物が混じっている。この不純物の混じった一見透き徹った水を沸かし、その水蒸気を冷却すると、透き徹った混り気のない水が誕生するわけである。このように泥水を沈澱濾過し、蒸留するからこそ、透き徹った混じり気のない水ができるというものである。
 五つの比喩を例示しながら、心を無にする ことの大切さと、近年エアロビックスという身体をシェイプアップする体操が流行しているが、身体だけでなく、心のエアロビックス・心のシェイプアップを心掛けなければならないことを申し添え、宗祖隠元禅師ご遺誡の一節を次に掲げる。
 「倶に聖制に遵って禁足安禅、昼三夜三己躬下の事を究明するを務とせよ。参禅は一人と万人と敵するが如くに相似たり。」