●佛日寺の前身 松隣寺創建時の宗派をめぐる考察
― 青木重兼と臨済宗大徳寺派禅僧との関係を中心に ―
■はじめに
摂津国麻田藩主 青木家の菩提寺である佛日寺(大阪府池田市)は、その前身を「松隣寺」とし、寛永7年(1630)、第2代藩主青木重兼が仙渓和尚を開山に迎えて麻田藩内の天王山に建立したとされる。現在の佛日寺は黄檗宗の寺院であるが、青木重兼公の信仰は生涯の中で大徳寺派、妙心寺派、そして黄檗派(現黄檗宗)へと展開を見せている。
本稿の目的は、この過渡的な信仰展開のなかで、松隣寺が創建された初期段階においてどの宗派に属していたのかを、青木家歴代藩主の動向や関連寺院、そして臨済宗大徳寺派の禅僧たちとの関係性から明らかにすることである。
第1章 青木重兼の参禅と大徳寺派禅僧 第2代藩主 青木重兼公の禅宗に対する関わりを紐解くと、特にその若い時期から松隣寺創建期にかけて、臨済宗大徳寺派僧たちと極めて深い関係を結んでいたことが確認できる。
『端山和尚紀念録』によれば、重兼公は20歳であった寛永3年(1626)、「興雲寺」の龍嶽宗劉禅師に参禅している。さらにその後も、大徳寺派の高僧である玉室宗珀禅師や江月宗玩禅師に相次いで参禅し、最終的には品川東海寺の清巌宗渭禅師から印可を受けるに至っている。 重兼が妙心寺派の愚堂東寔禅師(1577〜1661)に参禅した際に与えられた「愚堂和尚法語」(寛永21年/1644年/方広寺所蔵)には、以下の記述が見られる。
「甲州太守青木重兼者誠是宗門中人也 此故遊諸知識門扣問大事者年久矣」
(甲斐守青木重兼は誠にこれ宗門の人なり。この故に諸知識の門に遊んで大事を扣問すること年久し)
この「諸知識の門に遊んで…年久し」という愚堂禅師の証言は、重兼公が愚堂禅師に参禅する以前の長年にわたり、大徳寺派をはじめとする諸方の高僧(知識)のもとを訪ね歩き、参禅を重ねていた事実を客観的に裏付けている。なお、重兼公は寛永18年(1641)より旗本木下利常公(1607〜1689)とともに仁和寺造営奉行を命じられて京都に滞在した際、妙心寺の隣に館を構えて愚堂禅師に師事し、機縁相合して号「竹堂」、法語、安陀衣を授けられている。しかし、寛永7年(1630)の松隣寺建立という時点に限定して見れば、彼が最も深く師事し関係を築いていたのは大徳寺派の系譜であった。
第2章 青木一重の墓所と祥雲寺初代藩主一重公が寛永5年(1628)8月に78歳で没した際、その墓所は江戸の「祥雲寺」に置かれた。『寛政重脩諸家譜』には以下の通り記されている。
「寛永五八月九日卒す。年七十八。華屋令曇梅隣院と號す。麻布の祥雲寺に葬る。のちこの寺を渋谷にうつさるのとき彼地に改葬す」
この祥雲寺の沿革と改葬の経緯を整理すると、以下のようになる。
(1)創建と移転:元は赤坂溜池にあり「龍谷山興雲寺」と号した。黒田長政公の嫡子 忠之公が父の菩提を弔うため、長政が帰依していた龍嶽宗劉禅師を開山に迎えて建立。寛永6年(1629)に麻布へ移転して「瑞泉山祥雲寺」と改称し、さらに寛永8年(1631)の火災を機に現在の渋谷へ移転した。
(2)改葬の背景:一重が没した寛永5年(1628)には麻布の祥雲寺に葬られ、その後、祥雲寺が渋谷へ移転した際には、「彼地」に改葬されたことが史料に明記されている。一方、これとほぼ同時期の寛永7年(1630)、重兼公は自らの領内に松隣寺を建立している。松隣寺はのちに青木家の菩提所となり、現在の佛日寺には一重公の墓碑が現存している。
このことから、一重公の死後まもなく、重兼公によって領内に青木家の菩提寺を整備する動きが始まったことがうかがえる。史料に記される祥雲寺から「彼地」への改葬と、寛永7年の松隣寺建立、さらに現在の佛日寺に残る一重公の墓碑を合わせて考えると、一重公の墓所は、祥雲寺から渋谷へ移された後、青木家の菩提寺として整備された松隣寺へ、さらに改葬された可能性が考えられる。あるいは、渋谷への改葬の際に分骨され、その一部が松隣寺に納められた可能性も残される。
重兼公が先代一重公の弔いを委ねた祥雲寺は、まさに自身がかつて参禅した龍嶽禅師が住持を務める大徳寺派の江戸の中核寺院であった。この事実は、松隣寺建立前における青木家の仏事が、大徳寺派との交流の中で執り行われていたことを示している。
第3章 松隣寺開山「仙渓和尚」と仙渓宗春寛永7年(1630)、重兼が松隣寺の開山として迎えた「仙渓和尚」とは具体的に誰を指すのか。
『新修 禅学大辞典』(駒澤大学)735頁の記述によれば、大徳寺派に仙渓宗春禅師(1605〜1684)という高僧の名が見出される。仙渓禅師は美濃出身の臨済僧で、重兼公の師である龍嶽禅師に師事してその法を嗣いだ弟子である。後に承応3年(1654)に大徳寺(189世)へ出世し、祥雲寺や品川東海寺の輪番住職も兼ねたとされる。重兼公が師事した龍嶽禅師の法嗣であり、かつ重兼公とゆかりの深い祥雲寺・東海寺に関与している点から、松隣寺の開山に招かれた仙渓和尚とは、この仙渓宗春禅師を指している可能性が極めて高く、同一人物であると推測される。
さらに、仙渓禅師の足跡をたどると、京都 大徳寺の塔頭「玉林院」に行き着く。玉林院は月岑宗印禅師が開山、龍嶽禅師が第3世を務めた寺院であり、仙渓宗春は第4世住職として24歳から80歳まで長きにわたり同院を護持した。
この玉林院と青木家にも、決定的な接点が存在する。『寛政重脩諸家譜』によれば、
「正保元年六月二十六日 京師において卒す。年十八。三要一玄清巌院と号す。彼地大徳寺の玉林院に葬る。」
重兼が養嫡子(跡継ぎ)として迎えた青木可一公(酒井忠勝の三男)が正保元年(1644)に18歳の若さで京にて早世した際、その墓所を玉林院に設けている。この時期、重兼公は仁和寺造営奉行として京都に滞在しており、妙心寺の愚堂禅師にも近接していたが、藩主家の嫡男たる可一公の葬儀においては、かつて信頼を寄せ松隣寺の開山にも招いた仙渓禅師が住職を務める玉林院を選んでいる。
■おわりに 松隣寺創建時の宗派をめぐる考察重兼の生涯における禅的歩みは、大徳寺派から妙心寺派、そして晩年の黄檗派への傾倒へと多層的な展開を見せる。しかし、松隣寺が創建された寛永7年(1630)前後の動向と人間関係の系譜を整理すると、以下の明確な連続性が確認できる。
・師弟の系譜:龍嶽宗劉(大徳寺派) → 仙渓宗春(大徳寺派 龍嶽の法嗣)
・初期の参禅:龍嶽宗劉、玉室宗珀、江月宗玩、清巌宗渭(すべて大徳寺派)
・墓所の系譜:
(1)初代一重:龍嶽宗劉が開山した「祥雲寺」に埋葬後、松隣寺へ改葬(もしくは分骨)
(2)養嫡子可一:龍嶽・仙渓が住職を務めた大徳寺塔頭「玉林院」に埋葬
これらの史料的状況証拠を総合すると、第2代藩主 青木重兼が松隣寺の開山として招聘した仙渓和尚は「仙渓宗春」であったと見るのが極めて自然であり、のちに黄檗派の佛日寺へと変遷する前の「松隣寺創建時」における宗派は、臨済宗大徳寺派であったと推測される。
今後は、現存する古文書のさらなる調査ならびに関係寺院に残る墓石・墓碑等の現地確認を進めることにより、本稿で提示した推論をさらに検証し、より確かな史料的裏付けを得ていきたいと考えております。
なお、本稿を作成するにあたり、玉林院の歴代年譜稿が収録され、仙渓宗春禅師についても詳しく紹介された玉林院寺報『しょうりん』第78号をご恵送いただきました。
貴重な資料をご提供くださいました玉林院住職・森玉雲禅師には、ご多用の折にもかかわらず、丁寧にご対応を賜りましたこと、心より厚く御礼申し上げます。今回の調査において、仙渓禅師の足跡をたどり、青木家との関係を考察する上で、同寺報は大変貴重な手がかりとなりました。 ここに改めまして、貴重な資料をご恵送賜りましたこと、ならびに温かいご配慮を賜りましたことに、深甚なる感謝の意を表します。