●枝垂れ桜

 

〜麻田藩所領安堵400年記念植樹〜







 平成28年2月21日(日)に当山で麻田藩所領安堵400年を記念した植樹セレモニーが御座いました。
 元和元(1615)年、初代青木一重公が徳川家康公に家臣として召し出され、 摂津国豊嶋・河辺2郡(池田、箕面、豊中市等)、備前国に1万2000石の所領を与えられ麻田藩は立藩されました。  その後、江戸時代を乗り切り、明治維新をもって廃藩となりますが、藩主青木家は400年を経て現在に繋がっております。
 当日は青木淳一氏(本家)、発起人の青木一章氏(分家)をはじめとする9名の末裔方が来山されました。 まず、本堂において藩祖青木重直公、初代青木一重公、二代青木重兼公の御影を前に読経して、青木家400年の無事を報告致しました。

 続いて麻田藩歴代墓所前に移動して植樹セレモニーを挙行しました。まず一章氏よる開式宣言、続いて淳一氏による挨拶、次いで参加者全員による鍬入れを行い、セレモニーは恙無く閉式致しました。
 今回、植樹された枝垂れ桜は、発起人である一章氏による選定です。墓所の歴代藩主方や参拝される檀信徒方の目を楽しませてくれることだろうと思います。




更 新  青木一章氏の御尽力と青木淳一氏のご厚意により、
  御挨拶の本文を頂戴いたしました。 ここにご紹介させて頂きます。

▽本文▽



ご挨拶

 この度は、青木一重公の摂津麻田藩拝領四百年を記念する植樹祭を行う集いにご参集くださり、ありがとうございました。この行事は、東京に住まう私、本家の十七代青木淳一、大阪に住まう分家十四代の青木一章様、鹿児島に住まう旗本の十三代青木直平様の青木三家の子孫により取り行うものであります。
 ご承知の通り、一重公は一五五一年、美濃の国において青木重直の子として生まれ、長じて二十歳の時、姉川の合戦で剛勇を持って聞こえる朝倉方の猛将真柄十郎左ヱ門を倒す武勲を立て名を馳せました。戦国時代の武将の多くがそうであったように、一重も多くの戦国大名に仕え、土岐、齋藤、今川、徳川、織田と転々と主家を変え、戦国時代を生き抜いてきました。そして、最後には再び徳川家に仕え、一六一五年の大坂夏の陣のあと、一重六十五歳の時に麻田の地などを拝領し、一万二千石の藩主となりました。その領地は摂津二十八村、備中十一村を含むことにわたりました。
 一重公の人となりについてもう少し申し上げましょう。一重は小兵で痩せてはいたが、豪胆な肝っ玉の持ち主だったそうです。次々と主君を変えましたが、負け戦にはほとんど参戦したことがなく、幸運であったと言われます。幸運だけではなく、時代の流れを見極める眼力を備えていたようです。
 一重公が没したのは一六二八年、七十八歳の時でした。その後、十三代にわたる本家の藩主に引き継がれ、廃藩置県の時の最後の藩主重義公まで二五六年間にわたって藩が継続されました。このようなに立派な祖先を頂いたことを、私ども青木三家は誇りに思い、また深く感謝すべきものと思います。
 ここ、仏日寺は旧麻田藩主の菩提寺であり、池田市の史跡名勝記念物となっています。遥々中国から渡来された隠元禅師を開山とし、二代目藩主の重兼公(端山)を開基と致します。一重公の父君の重直公のお墓、麻田藩代々の藩主のお墓、ご分家および旗本家の代々のお墓、家臣団の墓地があります。本寺は、廃藩置県、農地改革の影響、度重なる暴風雨による被害、震災など、幾多の困難を切り抜け、立派に存続されてまいりました。今は現在のご住職、服部潤承様にしっかりと受け継がれております。そのことに、私どもは深い敬意と感謝の気持ちを捧げるものであります。
 この度、仏日寺に新しく植えられた枝垂れ桜とともに、青木三家の永遠の繁栄を祈って、ご挨拶とさせていただきます。
                          青木本家十七代 青木淳一






 

平成28年4月 満開の枝垂れ桜

 撮影者 青木一章氏