江戸時代の佛日寺本末関係
〜寛政二年「佛日寺末寺並配下由来書」をもとに〜
■はじめに
寛政二年(1790)八月、「寺院由来記録之為」と題する古文書が作成された。本書は、佛日寺を中心とする末寺・配下寺院および庵の由緒を記録したもので、摂津国・丹波国・河内国に所在する寺院の創建・再建、本末関係、黄檗宗への所属経緯、境内地の状況などを伝えている。
本書に記された寺院は、佛日寺の直接末寺に限らない。大舟寺・福田寺の末寺や、佛日寺の門支配に属する寺院・庵のほか、黄檗山萬福寺や神護寺を本寺とする寺院も含まれている。このため、本書は佛日寺一寺の沿革を記した縁起書ではなく、同寺を中心とする広域的な寺院関係を知ることのできる史料である。
特に注目されるのは、各寺院の由緒について、元禄五年(1692)の寺社御改めに際して提出した書出しや届出内容に言及している点である。さらに、末尾には「右之通末寺並ニ配下都合拾六軒由来書少しも相違無御座候尤本寺黄檗山江差出候通ニ御座候」とあり、佛日寺監寺霊雲の署名と黒印が据えられている。
これらの記述から、本書は元禄五年の寺社御改めに関する記録を基礎とし、その後の寺院の再建・中興や本末関係の変更などを加えて、寛政二年の段階で関係寺院の由緒と所属を整理したものと考えられる。また、黄檗山に提出したものと同内容であることから、佛日寺内部の記録にとどまらず、本山に対して寺院組織の構成を説明・確認する役割も担っていたとみられる。
本稿では、本書の記載内容を整理し、成立事情、佛日寺の寺院組織、黄檗宗の地方展開、寺社行政および土地制度との関係を検討する。これにより、佛日寺の歴史的位置づけと本書の史料的意義を明らかにしたい。
一章 資料の性格と成立事情1 資料の概要
本書の表紙には、「寛政二年」「寺院由来記録之為」「庚戌八月」「佛日寺」と記されている。庚戌八月は寛政二年(1790)八月にあたり、本書が十八世紀末に佛日寺で作成されたことが分かる。
本文は佛日寺の由緒から始まり、関係寺院・庵について一寺ごとに記載する形式をとる。各項目には所在地と知行主・代官などを記したうえで、開創・再建の由緒、黄檗宗への所属、本末関係、境内地の規模などが記されている。末尾には寺院・庵の総数と確認文言があり、佛日寺監寺の署名・黒印が据えられている。
したがって、本書は寺院縁起の集成であると同時に、佛日寺関係寺院の由緒と所属関係を一定の形式で整理した文書と評価できる。2 元禄五年の寺社御改めとの関係
本書の成立事情を考えるうえで重要なのが、元禄五年(1692)の寺社御改めに関する記述である。
佛日寺には「元禄五壬申年寺社御改之節書出通之文章ニ御座候」とあり、大舟寺・福田寺・臥龍庵・松源庵・常楽庵・談松庵などについても、同年の寺社御改めに際して書き出し、あるいは届け出た内容であることが記されている。
元禄五年の寺社御改めは、近世の寺社行政を考えるうえで重要な制度的契機であった。松本和明氏は「近世中後期における大坂町奉行所寺社支配について―元禄五年寺社改帳を手がかりに―」(『史学雑誌』第126編第3号、2017年)において、京都町奉行所と大坂町奉行所の支配地域では、寺社改めの目的や調査方式に相違があったことを指摘している。特に大坂町奉行所支配地域では、寺社敷地・境内の間数の把握が重視され、元禄寺社改帳がその後の寺社行政にも用いられたことを論じている。
本書にも各寺院の境内地について東西・南北の間数や、除地・年貢地の別が記されており、元禄五年の寺社御改めとの関連がうかがえる。
ただし、本書は元禄五年の寺社改帳そのものではなく、寛政二年に作成された文書である。本文には元禄五年以後の出来事も記されており、常楽庵の宝暦五年(1755)の住持変更、天光寺が寛延二年(1749)に佛日寺の支配下に入った経緯、東光寺が安永六年(一七七七)に佛日寺末寺となることを大坂奉行所に願い出た経緯などが確認できる。
したがって、本書は元禄五年の寺社御改めに関する記録を基礎としながら、その後約百年間の寺院の変遷を加えて再整理した文書と考えられる。3 本末関係の確認文書としての性格
本書末尾には、次の文言が記されている。「右之通末寺並ニ配下都合拾六軒由来書少しも相違無御座候尤本寺黄檗山江差出候通ニ御座候以上」
ここでは、末寺および配下の寺院・庵、合計十六軒の由来書について、記載内容に相違がなく、黄檗山に提出したものと同内容であることが確認されている。
近世の寺院社会では、本寺と末寺の関係が宗派組織を支える重要な基盤となっていた。幕府も諸宗の本山に本末関係の把握を求めており、本末帳は寺院の所属関係を登録する帳簿として作成された。
本書は全国的な本末帳とは異なるものの、佛日寺を中心とする特定の寺院組織について、由緒と所属関係を一括して確認する文書である。その意味で、近世の寺院本末関係を地域社会の実態に即して検討するための重要な史料といえる。
なお、現存する本書が黄檗山に提出された原本なのか、提出文書の控えなのか、あるいは同内容の別本なのかは、現段階では確定できない。黄檗山萬福寺に所蔵されているであろう関係文書との照合が今後の課題である。4 本書の史料的意義
以上のように、本書は次の五つの側面を持つ史料である。
第一に、佛日寺および関係寺院の創建・再建・中興を伝える寺院史料である。
第二に、末寺・門末・配下寺院の構成と所属関係を明らかにする本末関係史料である。
第三に、元禄五年の寺社御改めに由来する情報を継承した寺社行政史料である。
第四に、境内地の規模や年貢地・除地の別、知行主・代官を記す土地制度史料である。
第五に、黄檗宗寺院が地域社会の中で再建・中興され、宗派組織に編入されていく過程を伝える宗派史料である。
このように、本書は宗教的な由緒と、近世社会における寺院の制度的・行政的な位置づけを併せて伝えている点に特色がある。
さらに、本書は黄檗宗全体の末寺形成を論じた研究との比較においても重要な意味を持つ。竹貫元勝先生は『近世黄檗宗末寺帳集成』において、近世の黄檗宗末寺帳をもとに、幕府の寺院統制下における教団の形成と地方展開、古跡復興や既存寺院の再興を通じた末寺形成などを論じている。本書は、こうした黄檗宗全体の動向を、佛日寺という地方寺院の具体的な事例から検証することのできる史料である。特に、寺院ごとの創建・再建・中興の由緒と、本末関係・門支配・配下の関係が併せて記されている点は、黄檗宗の地方組織が形成される過程を具体的に明らかにするうえで重要である。
二章 佛日寺の寺院組織と関係寺院の由緒
1 佛日寺の創建と黄檗宗寺院としての成立
本書によれば、佛日寺の前身は松隣寺であり、青木源五郎家の先祖の菩提所として建立された寺院であった。
松隣寺は寛永七年(1630)春、青木甲斐守の先祖に関係して建立された。その後、承応三年(1654)春、摂津国豊嶋郡畑村にあった古跡・吾孫子寺の地に移転して堂舎を建立し、隠元和尚を招請して開山とした。これを機に摩耶山佛日寺と改号し、黄檗宗に改めたという。延宝二年(1674)には、青木甲斐守から大坂奉行所へ関係事項の届出がなされた。
また、慧林和尚が寛文四年(1664)九月八日に初めて祝聖開堂を行ったことも記されている。
これらの記述から、佛日寺は青木氏の菩提所としての性格を持ちながら、松隣寺の移転・再建を経て、隠元を開山とする黄檗宗寺院として成立したことが分かる。2 佛日寺を中心とする寺院組織
本書に記された寺院・庵は、次のように分類されている。
佛日寺末寺
式盧山大舟寺
慈雲山福田寺
洪慈山東光寺門末庵
臥龍庵
松源庵
常楽庵
談松庵門支配所
慧日山天光寺
寶珠山常福寺
円戒庵大舟寺末寺
正持庵
松寿庵福田寺末寺
本瑞山光方寺黄檗山末寺
金竜山神護寺神護寺末寺
清泰庵この一覧から、佛日寺の関係寺院が単純な直接末寺の集合ではなく、複数の系列から構成されていたことが分かる。大舟寺・福田寺を介した末寺関係がある一方、門末庵や門支配所も含まれている。また、神護寺は黄檗山の末寺であり、その末寺として清泰庵が記されている。
したがって、本書は佛日寺の直接末寺だけを記したものではなく、門支配や配下寺院を含む広範な寺院関係を整理した文書と理解すべきである。
なお、末尾の「拾六軒」という数字は、一覧に記された十五の寺院・庵に佛日寺を加えた数と一致する。ただし、「軒」の数え方や「末寺並ニ配下」の範囲については、原本の記載形式を踏まえた検討が必要である。3 関係寺院の成立と再建
これらの寺院の成立・再建過程は、近世黄檗宗の末寺形成の特徴とも関連している。竹貫元勝先生は、黄檗宗の地方展開において、既存寺院の再建・中興や古跡復興が末寺形成の重要な手段となったことを指摘している。佛日寺関係寺院についても、古い由緒を持つ寺院が荒廃・無住となった後に黄檗僧によって再興された事例や、既存寺院が黄檗派に改められた事例が確認できる。したがって、各寺院の由緒を個別に検討するだけでなく、既存の地域寺院が黄檗宗の地方組織に編入される過程として捉える必要がある。
本書に記された寺院の多くは、創建当初から黄檗宗であったわけではない。既存寺院の再建・中興や、無住となった寺院の再興を通じて黄檗宗に改められた例が多い。(1)大舟寺
摂津国川辺郡波豆川村の式盧山大舟寺は、往古の開創は不明ながら、日羅上人開闢との伝承があり、境内の十二町の町石には明応八年(1499)の年号が刻まれていたという。
慶長年間頃、周学宗翁が住山して再建した。その後、長く無住となったが、寛文年間に慧林和尚の弟子である無範別伝が住山し、慧林和尚を開山として迎え、黄檗派に改めた。さらに延宝六年(一六七八)には、同村内の松尾谷に移転し、大舟山式盧庵から式盧山大舟寺へと改称した。(2)福田寺
丹波国氷上郡石見村の慈雲山福田寺は、往古の由緒は不明であるが、寛文十一年(1671)に石隠という僧が再建した。その際、慧林和尚を開山として迎え、佛日寺の末寺となり、黄檗派に改められた。往古の山号は瓦石山であったが、中古より慈雲山に改められたという。(3)東光寺
摂津国島上郡津江村の洪慈山東光寺は、開創の由緒が不明で、天正年間頃から諸宗が入り交じった状態で住持が続いていたという。
安永六年(1777)、住持滄洲が佛日寺の末寺となることを大坂奉行所に願い出て、黙堂を迎えて中興し、黄檗派に改めた。これは、佛日寺の末寺組織が近世初期に固定したものではなく、十八世紀後半にも新たな寺院を受け入れていたことを示す事例である。(4)臥龍庵・松源庵・談松庵
豊嶋郡渋谷村の臥龍庵は、寛文元年(1661)春、無範が建立し、慧林和尚を開基として佛日寺の末庵となった。
河辺郡酒井村の松源庵は、往古の開基は不明であるが、延宝七年(一六七九)に元登が再建し、慧林和尚の開基によって佛日寺末庵となった。
また、渋谷村の談松庵も延宝年間に再建され、慧林和尚の開基によって佛日寺末庵となった。(5)天光寺
豊嶋郡畑村の慧日山天光寺は、文禄年間の開闢と伝えられるが、当初は本寺を持たず、村の吉右衛門が支配していた。その後、吉右衛門が佛日寺の檀那であったことから、佛日寺の支配下に入ったという。
さらに寛延二年(一七四九)には、佛日寺から天光寺に関係する支配が移され、中興されて黄檗派となった。(6)常福寺
川辺郡柘原村の寶珠山常福寺は、至徳二年(1385)に戒要という僧が建立したと伝えられる。その後の住持については詳らかでないが、元禄六年(1693)、当時の住持石翁が代官所に由緒を届け出て、黄檗派に改めたとされる。
以上の事例から、佛日寺関係寺院の形成には、古寺の再建、無住寺院の中興、新たな庵の建立など、複数の経緯があったことが分かる。既存の寺院や地域の信仰基盤を引き継ぎながら、黄檗宗の寺院組織へ編入されていった点に特徴がある。4 僧侶の活動と寺院ネットワーク
本書には、複数の寺院・庵の由緒に共通して登場する僧侶が確認できる。なかでも慧林和尚は、大舟寺・福田寺・臥龍庵・松源庵・談松庵などの再建・開基に関係している。
また、無範・別伝・黙堂らも、それぞれ複数の寺院の再建や中興に関わっていた。これらの記載から、佛日寺関係寺院の形成には、僧侶の師弟関係や法脈を通じた人的なつながりが重要な役割を果たしていたことがうかがえる。こうした人的関係が、寺院の本末関係や門支配の形成にどのように結びついたのかについては、第三章で改めて検討する。5 摂津・丹波・河内に広がる寺院関係
本書に記された寺院・庵は、摂津国・丹波国・河内国の三国に及んでいる。
所在地を整理すると、次のとおりである。【摂津国】
豊嶋郡:佛日寺・臥龍庵・常楽庵・談松庵・天光寺・円戒庵
川辺郡:大舟寺・松源庵・常福寺・正持庵・松寿庵
島上郡:東光寺【丹波国】氷上郡
福田寺・光方寺【河内国】
河内郡:神護寺
茨田郡:清泰庵このように、佛日寺を中心とする関係寺院は三国にまたがっていた。ただし、そのすべてが佛日寺の直接末寺ではなく、門支配に属する寺院や、他寺院の末寺、黄檗山を直接の本寺とする寺院も含まれている。
したがって、この寺院組織は、地域的な広がりとともに、本末関係の異なる複数の系列を持つものであった。6 寺院と領主・代官、境内地との関係
本書には、各寺院の所在地とともに知行主や代官の名前が記され、境内地の規模や土地の性格も具体的に示されている。
例えば、青木源五郎の知行所には佛日寺・大舟寺・臥龍庵などが、九鬼長門守の知行所には福田寺・光方寺が記されている。また、保科越前守の知行所には松源庵、永井日向守の知行所には東光寺が記載されている。そのほか、石原清左衛門の代官所、小堀数馬の支配所、羽倉権九郎の支配所なども確認できる。
境内地については、東西・南北の間数や町・反・畝・歩による面積が記され、「年貢地」「除地」の区別も示されている。佛日寺の境内は二町六反三畝二十歩とされ、大舟寺には境内除地の東西・南北の規模が記されている。一方、福田寺・臥龍庵・松源庵・常楽庵などは、境内が年貢地であることが明記されている。
除地とは年貢負担を免除された土地であり、年貢地は年貢負担の対象となる土地である。これらの記載から、寺院境内地の土地制度上の扱いは一様ではなかったことが分かる。
また、宗派上の本末関係と、土地を支配する領主・代官の関係とは必ずしも一致していない。こうした記録は、寺院の宗教的な所属だけでなく、近世における寺院の経済的基盤や領主支配との関係を検討するうえでも重要である。7 住持・兼帯・尼僧に関する記録
本書には、各寺院の住持や留守居、兼帯者の名前も記されており、寛政二年当時の寺院運営の実態を知ることができる。
特に常楽庵については、代々尼僧が住持を務めていたが、宝暦五年(1755)、住持となった尼僧が若年であったため、願い出によって男僧持ちとなり、槐峯という僧が住持になったと記されている。その後は臥龍庵の商山が兼帯していたという。
また、円戒庵は尼僧によって相続されていた。
これらの記述から、佛日寺関係の寺院・庵には尼僧が住持を務める施設もあり、住持が常住せず、他寺院の僧侶が兼帯する形で運営される場合もあったことが分かる。寺院組織は、本末関係だけでなく、こうした僧侶の配置や兼帯によっても維持されていたのである。
第三章 佛日寺関係寺院の黄檗宗への所属過程1 黄檗宗への所属経緯とその類型
『寺院由来記録之為』に記された佛日寺関係寺院の由緒を検討すると、これらの寺院が黄檗宗に所属するに至った経緯は一様ではなかったことが分かる。
その多くは、黄檗宗の新寺院として一から建立されたものではなく、既存の寺院や庵を再建・中興し、黄檗僧を開山・開基として迎えることによって、黄檗宗の寺院組織に編入されたものである。また、無本寺であった寺院が佛日寺の支配下に入ることによって所属関係を形成した事例や、他の黄檗宗寺院の末寺となることで宗派組織に加わった事例も確認できる。
こうした経緯は、大きく次の五つに分類できる。
第一は、既存寺院を黄檗僧が再建し、黄檗宗寺院として再興した事例である。大舟寺・福田寺・松源庵・光方寺などがこれに該当する。
第二は、慧林和尚およびその門下の僧侶が開山・開基となり、新たな寺院・庵を建立した事例である。臥龍庵・常楽庵・談松庵などが該当する。
第三は、無本寺であった寺院が佛日寺の支配下に入り、黄檗宗の所属関係を形成した事例である。天光寺・円戒庵などがこれにあたる。
第四は、既存寺院が宗派の所属を変更し、黄檗宗寺院となった事例である。東光寺・常福寺・神護寺・清泰庵などが該当する。
第五は、黄檗山萬福寺や既存の黄檗宗寺院との関係を通じて、佛日寺の直接末寺とは異なる系列に属した事例である。神護寺およびその末寺である清泰庵が代表例である。
ただし、これらの分類は寺院の成立事情を理解するための分析上の区分であり、各寺院の経緯が必ずしも一つの類型だけに限定されるわけではない。特に再建・中興と本末関係の成立は、相互に関係していたと考えられる。2 慧林和尚とその門下による寺院の再建・中興
佛日寺関係寺院の形成において、中心的な役割を果たした人物の一人が慧林和尚である。
本書では、大舟寺・福田寺・臥龍庵・松源庵・談松庵などの由緒に慧林和尚の名前が登場する。
大舟寺は、往古の由緒を持つ寺院であったが、長く無住となっていた。寛文年間に慧林の弟子である無範・別伝が住山し、慧林を開山として迎え、黄檗派に改めた。これは、既存の寺院を黄檗僧が再興し、その再建を通じて宗派上の所属を確立した事例である。
福田寺も、寛文十一年(1671)に石隠が再建し、慧林を開山として迎えたことによって佛日寺の末寺となり、黄檗派に改められた。
臥龍庵は、寛文元年(1661)に無範が建立し、慧林を開基として佛日寺の末庵となった。松源庵も、延宝七年(1679)に元登が再建し、慧林を開基として佛日寺末庵となっている。また、談松庵についても、延宝年間に慧林が開基となり、その門下が継承することによって佛日寺末庵となったと記されている。
これらの事例に共通するのは、慧林和尚が単に佛日寺の住持として活動しただけでなく、周辺寺院・庵の再建や新設に関与し、黄檗宗の地方組織を形成するうえで重要な役割を果たしていたことである。
竹貫元勝先生は、黄檗宗の地方的な末寺形成について、藩主などの外護者の菩提寺を拠点として周辺地域に末寺を形成する動きがあったことを指摘している。また、創建時の法要などに必要な僧侶の配置という点からも、近隣の荒廃寺庵や無住寺院を黄檗宗化することには利点があったと考察している(竹貫元勝編著『近世黄檗宗末寺帳集成』二九頁)。この指摘を佛日寺の事例に照らすと、青木氏の菩提所としての由緒を持つ佛日寺が、慧林和尚らの活動を通じて周辺寺院の再建・中興に関与していたことは注目される。佛日寺を拠点とする人的ネットワークは、法脈の継承にとどまらず、地方寺院の再興と維持を支える役割を果たしていたと考えられる。
さらに、慧林の門下に属する無範・別伝・黙堂らも、複数の寺院の再建・中興に関係している。こうした僧侶の活動を通じて、佛日寺を中心とする人的なつながりが形成され、それが寺院の本末関係や門支配の成立にも結びついていたと考えられる。
したがって、佛日寺の関係寺院が形成された背景には、宗派組織上の制度的な関係だけでなく、慧林和尚とその門下による人的ネットワークが存在していたといえる。3 無本寺寺院の佛日寺支配への編入
本書に記された寺院のなかには、創建当初から本寺を持たず、地域の有力者や檀那との関係によって維持されていた寺院も存在する。
その代表例が天光寺である。天光寺は文禄年間の開創と伝えられるが、当初は本寺を持たず、村の吉右衛門が支配していた。吉右衛門が佛日寺の檀那であったことから、天光寺は佛日寺の支配下に入ったと記されている。その後、寛延二年(一七四九)の関係記事において黄檗派となった経緯が記録されている。
この事例は、寺院の宗派上の所属関係が、必ずしも僧侶の法脈や寺院の再建だけによって形成されたものではなかったことを示している。地域の檀那と佛日寺との関係が、天光寺の所属を決定するうえで重要な契機となっていたのである。
円戒庵も、宝永年間(1704〜1711)に蓬真によって開創された後、本寺を持たず、尼僧が代々住持を務めていた。しかし、本書では黄檗宗佛日派下に属することから佛日寺の支配下に置かれたと記されている。
このように、佛日寺の支配下に入った寺院・庵には、黄檗僧が直接再建したものだけでなく、地域社会との関係や既存の宗派的所属を背景として、佛日寺との関係を形成したものも存在した。
ただし、天光寺については、佛日寺の支配下に入った時期と黄檗派となった時期を区別する必要がある。本書の現代語訳だけでは、その両者の具体的な前後関係を完全には確定できない。4 既存宗派から黄檗宗への所属変更
本書には、既存の禅宗寺院が黄檗宗に所属するようになった事例も記されている。
東光寺は、天正年間頃から諸宗が入り交じった状態で住持が続いており、特定の本寺を持たない寺院であった。安永年間には住持滄洲が佛日寺の末寺となることを大坂奉行所に願い出て、黙堂を中興開山として迎え、黄檗派に改めた。
この事例は、寺院の宗派変更と本末関係の形成が結びついていたことを示すものである。すなわち、東光寺は単に黄檗宗の教義や儀礼を受け入れただけでなく、佛日寺の末寺となることを行政機関に願い出ることによって、制度上の所属関係を明確にしようとしていた。
常福寺も、当初は本寺を持たない寺院であった。至徳二年(1385)に戒要が建立したと伝えられるが、その後の住持については明らかでない。元禄六年(1693)には住持石翁が代官所に由緒を届け出て、黄檗派となったと記されている。ただし、この記載だけでは、佛日寺の末寺となったのか、あるいは別の形で黄檗宗に所属したのかは明確でない。したがって、門支配所という本書の分類と、黄檗宗への所属経緯とは分けて理解する必要がある。
神護寺については、元和年間頃には禅宗僧侶の真存が住山していたが、当初は本寺を持たず、その後も諸宗の僧侶が住持していたという。正徳元年(1711)には別伝が中興を願い出て、黄檗山萬福寺の末寺となった。
この神護寺の事例は、佛日寺の直接的な支配関係を経由せず、黄檗山を本寺とする所属関係が形成された例として注目される。
さらに、神護寺の末寺である清泰庵も、もとは禅宗の庵であったが、元禄三年(1690)に養亭が建立し、神護寺の末寺となることによって黄檗派となった。
以上の事例から、既存の寺院・庵が黄檗宗に所属する過程には、佛日寺を介したものと、黄檗山萬福寺やその末寺を介したものが存在していたことが分かる。5 黄檗宗への所属を促した要因
以上の各寺院の由緒を総合すると、佛日寺関係寺院が黄檗宗となった背景には、少なくとも四つの要因があったと考えられる。
第一は、黄檗僧による寺院の再建・中興である。慧林和尚やその門下の僧侶が既存寺院に入山し、開山・開基となることによって、寺院の再興と宗派上の所属が同時に進められた。
第二は、僧侶の師弟関係や法脈による人的な結びつきである。慧林の弟子である無範・別伝、さらに黙堂らが複数の寺院の再建や中興に関与していることから、僧侶の移動と法脈の継承が黄檗宗寺院の形成を支えていたと考えられる。
第三は、檀那や地域有力者との関係である。天光寺のように、地域の有力者が佛日寺の檀那であったことを契機として、寺院が佛日寺の支配下に入った事例が確認できる。寺院の宗派上の所属は、僧侶の活動だけでなく、地域社会の信仰や檀那関係とも密接に結びついていた。
第四は、寺院の所属関係を行政機関に届け出ることによる制度的な確定である。東光寺や常福寺などの事例から、寺院の再建・中興や宗派上の所属変更に際して、奉行所・代官所への届出が行われる場合があったことが分かる。
ただし、すべての寺院について、これらの要因が同じように作用したわけではない。各寺院の由緒を個別に検討する必要がある。
以上のことから、佛日寺を中心とする黄檗宗寺院の形成は、単純な宗派拡大というよりも、既存寺院の再興、僧侶の人的ネットワーク、地域の檀那関係、行政機関への届出などが重なり合うことによって進められたと評価できる。
第四章 寺院境内地の土地制度と除地・年貢地の構成1 境内地の記載と土地制度
『寺院由来記録之為』の重要な特徴の一つは、各寺院・庵の由緒や本末関係だけでなく、境内地の規模と土地の性格についても具体的に記録している点である。
本書には、境内地の東西・南北の間数や、町・反・畝・歩による面積が記されている。また、土地の性格については「除地」「年貢地」の区別が明記されている。
除地とは、年貢負担を免除された土地を指し、年貢地は年貢負担の対象となる土地である。したがって、これらの区分は、寺院が所有・使用していた境内地が、近世の土地制度のなかでどのように位置づけられていたのかを考えるうえで重要な情報となる。
本書に記された寺院・庵十六軒について土地の記載を整理すると、除地と年貢地のほか、土地区分が明確でないものも存在する。そこで、まず各寺院・庵の記載内容を一覧化する。2 除地・年貢地の一覧と集計
本書に記された十六軒について、境内地の区分を整理すると次のようになる。寺院号 所属 土地区分
佛日寺 本寺 除地
大舟寺 佛日寺末寺 明記なし
福田寺 佛日寺末寺 年貢地
東光寺 佛日寺末寺 年貢地
臥龍庵 門末庵 年貢地
松源庵 門末庵 年貢地
常楽庵 門末庵 年貢地
談松庵 門末庵 年貢地
天光寺 門支配所 年貢地
常福寺 門支配所 除地
円戒庵 門支配所 年貢地
松寿庵 大舟寺末寺 年貢地
正持庵 大舟寺末寺 明記なし
光方寺 福田寺末寺 年貢地
神護寺 黄檗山末寺 年貢地
清泰庵 神護寺末寺 年貢地
この一覧から、土地の区分が明記されているものは十四軒である。その内訳は、年貢地が十二軒、除地が二軒となる。年貢地 12軒
除地 2軒
区分不明 2軒十六軒全体に対する割合では、年貢地が75%、除地が12.5%、土地区分が明確でないものが12.5%となる。
また、土地区分が明記された十四軒だけを対象とすると、年貢地は約八五・七%、除地は約一四・三%となる。
このように、本書に記された佛日寺関係寺院・庵では、除地よりも年貢地の方が明らかに多かったことが分かる。
なお、大舟寺については、現在の境内地の東西・南北の規模が記される一方、寺の外にある旧地について「内除地」との記載がある。したがって、現境内地の区分が明記されていないことを理由に、旧地の除地という情報まで除外すべきではない。上記の集計では、現在の境内地と旧地を区別し、旧地の除地は参考情報として扱った。
正持庵については、境内の東西・南北の規模は記されているものの、除地・年貢地の別は明記されていない。そのため、土地区分不明として集計した。3 年貢地が多いことの意味
本書に記された寺院・庵のうち、土地区分が明記されているものでは年貢地が12軒、除地が2軒であり、年貢地が大部分を占めている。
特に注目されるのは、佛日寺の直接末寺だけでなく、門末庵や門支配所、さらに大舟寺・福田寺の末寺、黄檗山末寺である神護寺とその末寺の清泰庵においても、年貢地と記された寺院が多いことである。
例えば、佛日寺は境内地二町六反三畝二十歩が除地とされている一方、福田寺・東光寺は年貢地である。また、佛日寺の門末庵である臥龍庵・松源庵・常楽庵・談松庵も、いずれも年貢地と記されている。
このことから、佛日寺を中心とする寺院組織に所属していたことが、必ずしも境内地の除地を保証するものではなかったことが分かる。
また、同じ寺院組織のなかでも、佛日寺や常福寺のように除地とされた寺院が存在する一方、年貢地とされた寺院・庵も多数存在していた。
したがって、寺院の宗派上の所属や本末関係と、境内地の土地制度上の扱いとは、必ずしも一致していなかったと考えられる。
ただし、年貢地であることは、寺院が経済的に貧しかったことや、領主から保護されていなかったことを直接意味するものではない。土地の区分は、寺院の成立事情、領主の知行関係、土地の由緒、境内地の設定など、複数の要因によって決定されていた可能性がある。4 寺院の本末関係と土地制度との関係
本書に記された寺院の土地制度を検討すると、宗派上の本末関係と土地を支配する領主・代官の関係が、必ずしも一致していないことが分かる。
例えば、佛日寺・大舟寺・臥龍庵などは麻田藩青木源五郎の知行所に所在する一方、福田寺・光方寺は九鬼長門守の知行所に所在している。また、松源庵は保科越前守の知行所、東光寺は永井日向守の知行所に属している。
このように、佛日寺を中心とする宗派上のネットワークは、複数の領主の知行所にまたがって形成されていた。
さらに、神護寺は小堀数馬の支配所に所在し、清泰庵は羽倉権九郎の支配所に所在している。両寺院は黄檗山・神護寺を介した本末関係を持つが、土地の支配関係はそれぞれ別の領主・支配者に属していたことがうかがえる。5 土地制度からみた佛日寺関係寺院の特徴
以上の分析から、佛日寺関係寺院の土地制度には、次の三つの特徴が認められる。
第一に、土地区分が明記されている寺院・庵では、年貢地が十二軒、除地が二軒であり、年貢地が多数を占めていることである。
第二に、除地とされた寺院は佛日寺と常福寺であり、佛日寺の直接末寺・門末庵などに一律に除地が認められていたわけではないことである。
第三に、宗派上の本末関係と、領主・代官による土地支配の関係は別個の構造を持っていたことである。
このように、佛日寺を中心とする寺院組織は、宗派的な所属関係によって結びついていた一方、土地制度の面ではそれぞれ異なる条件のもとに置かれていた。
したがって、『寺院由来記録之為』は、黄檗宗の地方展開を明らかにするだけでなく、近世における寺院境内地の土地制度や、宗派組織と領主支配との関係を考察するうえでも重要な史料である。
五章 佛日寺の歴史的位置づけと黄檗宗の地方展開
1 既存寺院の再建・中興を通じた黄檗宗の展開
本書から明らかになるのは、黄檗宗の地方展開が、新寺院の建立だけによって進められたのではないということである。竹貫元勝先生が指摘するように、近世の黄檗宗は、幕府による新寺建立禁止などの宗教統制が進むなかで、既存寺院の再建・中興や古跡復興を通じて地方の末寺組織を形成していった。
佛日寺関係寺院においても、大舟寺・福田寺・東光寺などのように、既存寺院を再建・中興し、黄檗僧を開山・中興開山として迎えることによって黄檗派となった事例が確認できる。また、佛日寺自体も松隣寺を前身とし、吾孫子寺の古跡に移転・再建されることによって、黄檗宗寺院として成立した。
このような事例は、竹貫氏が指摘する古跡復興や既存寺院の再興を通じた末寺形成と共通する特徴を持つ。ただし、佛日寺の場合には、青木氏の菩提所としての由緒を持つ寺院が、隠元和尚を開山として黄檗宗寺院となり、さらに慧林和尚らの僧侶の活動を通じて周辺寺院との関係を形成していった点に特徴がある。
すなわち、佛日寺の地方展開は、外護者との関係を基盤としながら、既存寺院の再建・中興、僧侶の人的ネットワーク、地域の檀那関係などを組み合わせることによって進められたと考えられる。この点において、佛日寺は竹貫氏が明らかにした黄檗宗の地方末寺形成の特徴を具体的に示す事例として位置づけられる。2 本末関係と門支配の重層性
本書に記された寺院組織は、佛日寺の直接末寺だけでなく、大舟寺・福田寺の末寺、門末庵、門支配所、さらに黄檗山を本寺とする神護寺とその末寺である清泰庵などから構成されている。
この構造は、近世寺院の所属関係を単純な本寺・末寺の二者関係だけでは捉えられないことを示すものである。宗派上の所属、本末関係、門支配、配下関係、僧侶の兼帯など、複数の関係が重なり合って寺院組織が形成されていた。
本書は、こうした関係を一つの文書に記録している点で、十八世紀末の黄檗宗地方寺院の組織構造を具体的に知ることのできる史料である。3 近世寺社行政と土地制度
元禄五年の寺社御改めに関する記述や、大坂奉行所への届出の記録から、本書と近世の寺社行政との密接な関係がうかがえる。
特に東光寺が安永六年(1777)に佛日寺末寺となることを大坂奉行所に願い出た事例は、寺院の所属関係の変更が、宗派内部の問題にとどまらず、行政機関への届出を伴う場合があったことを示している。
また、境内地の規模や年貢地・除地の別、知行主・代官の名前が記録されていることから、寺院の宗教的な所属と土地制度上の位置づけが併せて把握されていたことも分かる。
この点で本書は、寺院組織の研究に加え、近世畿内における寺社行政や寺院の土地制度を検討するうえでも有用である。
第六章 延享・寛政・天保期の末寺帳からみた佛日寺の寺院組織とその変遷
1 三つの史料からみた佛日寺関係寺院
これまで検討してきた寛政二年(1790)の「寺院由来記録之為」は、佛日寺を中心とする末寺・門末庵・門支配所・配下寺院の由緒と所属関係を伝える重要な史料である。一方、黄檗文化研究所に所蔵されている延享二年(1745)の黄檗宗末寺帳と天保十四年(1843)の黄檗宗末寺帳は、佛日寺関係寺院の本末関係や、その後の寺院運営の状況を知るうえで重要な史料となる。
特に、延享の末寺帳は寺院の所属関係や所在地、除地・年貢地の区別を記録しているのに対し、天保の末寺帳には、無住となった寺院について、その開始年月や無住後の管理方法、寺役・法用を担当した寺院などが具体的に記されている。
したがって、これら三つの史料を比較することによって、十八世紀中頃から十九世紀中頃にかけての佛日寺関係寺院の組織的な変化と、各寺院の維持・運営の実態を検討することができる。
三つの史料の性格を整理すると、次のようになる。年代 史料 主な記載内容
延享二年(1745)末寺帳:本末関係・所在地・除地・年貢地
寛政二年(1790)寺院由来記録之為:寺院の由緒・本末関係・門支配・境内地・住持
天保十四年(1843)末寺帳:本末関係・所在地・無住開始年・留守居・寺務担当延享の末寺帳と寛政の由来書は、約45年の隔たりがあり、寛政の由来書と天保の末寺帳は約53年の隔たりがある。これらは同じ目的で作成された文書ではないため、記載内容の違いには史料の性格による差も考慮する必要がある。
2 延享・寛政・天保期における寺院組織の変化
まず、三つの史料に登場する寺院を比較すると、佛日寺を中心とする寺院組織には、一定の継続性が認められる一方、所属関係や記載上の分類には変化もみられる。
延享二年の末寺帳では、佛日寺は「黄檗山直末」とされ、その下に大舟寺・福田寺をはじめとする寺院・庵が記されている。また、神護寺も黄檗山直末として記載されている。
寛政二年の「寺院由来記録之為」では、佛日寺の関係寺院は末寺だけでなく、門末庵、門支配所、大舟寺末寺、福田寺末寺などに分類されている。ここでは、佛日寺を中心とした寺院組織の重層的な構造が、より詳しく示されている。
天保十四年の末寺帳では、佛日寺は「黄檗山直末・龍興下」と記載されている。また、大舟寺・福田寺は佛日寺末として記載され、正持庵・松寿庵は大舟寺の系列、光方寺は福田寺の系列として把握されている。
このように、佛日寺を中心とする寺院関係は、三つの史料を通じて継続して確認できる。特に大舟寺・福田寺を介した下位の寺院関係が維持されていた点は重要である。
一方、寛政二年の由来書では門末庵・門支配所とされていた寺院が、天保の末寺帳では佛日寺末あるいは無本寺として記載されている場合がある。
例えば、天光寺は延享の末寺帳では「瑞岩寺末」と記載されているが、寛政二年の由来書では佛日寺の門支配所として位置づけられ、天保の末寺帳では「無本寺・佛日系列」と記されている。
また、薬王寺は延享の末寺帳では「無本寺」とされ、天保の末寺帳でも「無本寺・佛日系列」と記載されている。これは、形式上の本末関係と、実際の管理・支配関係とが異なる場合があったことを示している。
さらに、天保の末寺帳には、延享の末寺帳には見られない東光寺・常福寺が記載されている。両寺院は寛政二年の由来書にも登場するため、延享から寛政にかけて佛日寺関係の寺院組織に加わった寺院、あるいはその関係が本山側の帳面に反映されるようになった寺院として注目される。
なお、延享の末寺帳に記された「無本寺」と、天保の末寺帳に記された「無本寺・佛日系列」は、必ずしも矛盾するものではない。前者は本寺の有無を示し、後者は本末上の所属とは別に佛日寺との実際の関係を示している可能性がある。
したがって、佛日寺関係寺院の変遷を考える際には、正式な本末関係だけでなく、門支配・配下・兼帯・寺務代行などを含めた実際の寺院間の関係を考慮する必要がある。3 天保十四年の末寺帳にみる無住寺院の実態
天保十四年の末寺帳で特に注目されるのは、無住となった寺院について、その開始年月と無住後の管理方法が具体的に記されていることである。
今回確認できる寺院のうち、無住の記載があるものは十寺院である。そのうち、無住となった年月が判明するものは九寺院であり、光方寺については無住となった年月が不明とされている。
無住開始年を古い順に整理すると、次のようになる。寺院名 無住開始年 西暦
薬王寺 安永9年 1780
臥龍庵 享和2年 1802
常楽庵 文化7年 1810
神護寺 文政13年 1830
天光寺 天保9年 1838
東光寺 天保11年 1840
常福寺 天保12年 1841
正持庵 天保14年 1843
松寿庵 天保14年 1843
光方寺 年月不明 不明この一覧から、佛日寺関係寺院の無住化は、少なくとも十八世紀後半から始まっていたことが分かる。
最も早い薬王寺は安永九年(1780)から無住となっており、続いて臥龍庵が享和二年(1802)、常楽庵が文化七年(1810)に無住となっている。
さらに、文政十三年(1830)には神護寺、天保九年(1838)には天光寺が無住となり、天保十一年(1840)から同十四年(1843)にかけては東光寺・常福寺・正持庵・松寿庵と、無住寺院が相次いでいる。
特に天保期に入ってからの無住化が目立つ。天保九年から天保十四年までの六年間に、少なくとも四寺院が新たに無住となっている。さらに、これ以前に無住となっていた寺院も引き続き無住の状態にあった。
このことから、天保十四年の段階では、佛日寺関係寺院のなかで、住持が常住していない寺院が相当数存在していたことが分かる。
ただし、無住となった時期が記録されていることは、必ずしもその時点で寺院が廃寺となったことを意味しない。実際、天保の末寺帳には、無住後も留守居を置き、本寺や他の寺院が寺役・法用を担当している状況が記されている。
したがって、ここでいう無住とは、寺院そのものが消滅した状態ではなく、住持が常住しなくなり、他寺院の僧侶や留守居によって維持される状態を指していると考えられる。4 無住寺院の管理と佛日寺・大舟寺・福田寺の役割
天保の末寺帳には、無住寺院の管理をどの寺院が担当していたのかが記録されている。
特に重要なのは、佛日寺が自らの直接末寺だけでなく、無本寺と記載された寺院や、河内国の神護寺についても寺務・法用を担当していたことである。
臥龍庵については、享和二年(1802)六月から無住となり、「無禄無檀ニ付本寺仏日寺ヨリ引受申候」と記されている。これは、無禄・無檀であったため、本寺である佛日寺が引き受けたことを示している。
常楽庵についても、文化七年(1810)三月から無住となり、「無禄無檀寺務法用無御座候」と記されている。臥龍庵と同じく無禄・無檀であるが、常楽庵の場合には寺務・法用も存在しなかったとされる。
この二つの記載は、無住寺院の維持状況を考えるうえで重要である。臥龍庵では無禄・無檀でありながら寺務・法用を務めていたのに対し、常楽庵では寺務・法用そのものが存在しなかった。つまり、同じ無住寺院であっても、寺院としての活動状況には違いがあったことが分かる。
また、正持庵・松寿庵については、天保十四年六月から無住となり、留守居を置いたうえで、大舟寺が寺役・法用を担当している。常福寺も天保十二年三月から無住となり、留守居を置いて、大舟寺が寺役・法用を担当していた。
一方、福田寺の末寺である光方寺は、無住となった年月が不明であるものの、寺役・法用は本寺福田寺が担当していた。
これらの事例を整理すると、無住寺院の管理は次のようになる。管理担当寺院 無住寺院
佛日寺 臥龍庵・常楽庵・東光寺・天光寺・薬王寺・神護寺
大舟寺 正持庵・松寿庵・常福寺
福田寺 光方寺このように、佛日寺・大舟寺・福田寺は、それぞれの系列に属する寺院の管理を担っていた。
特に佛日寺は、摂津国の寺院だけでなく、丹波国や河内国に関係する寺院の管理にも関与していた。神護寺については、もともと黄檗山直末であり、佛日寺の直接末寺ではないが、文政十三年(1830)から無住となった後、摂州畑村の佛日寺が寺役・法用を担当している。
これは、佛日寺が正式な本末関係の枠を越えて、周辺寺院の維持を支える役割を担っていたことを示す重要な事例である。
また、天光寺・薬王寺・常福寺についても、形式上は無本寺と記載されているが、実際には佛日寺や大舟寺が寺役・法用を担当していた。
したがって、天保期の佛日寺は、単なる本寺としての立場だけでなく、無住寺院の管理・維持を担う地域的な宗教拠点として機能していたと考えられる。5 無住化の背景と寺院の経済的基盤
それでは、なぜ十八世紀後半から十九世紀前半にかけて、佛日寺関係寺院では無住化が進んだのであろうか。
その原因を直接示す記載は、今回の末寺帳だけでは確認できない。しかし、寛政二年の「寺院由来記録之為」に記された除地・年貢地の区分と、天保十四年の無住寺院の状況を比較することによって、寺院の経済的基盤という観点から考察することができる。
寛政二年の由来書によれば、佛日寺関係寺院・庵十六軒のうち、土地の区分が明記されているものは十四軒である。その内訳は、年貢地十二軒、除地二軒であり、年貢地が大部分を占めていた。
一方、延享二年(1745)の末寺帳では、今回確認できる十四寺院のうち、除地が七寺院、年貢地が四寺院、土地区分の記載がないものが三寺院となっている。
両史料を比較すると、寺院の土地の扱いに変化があった可能性が認められる。
特に、延享の末寺帳では除地と記されていた松源庵・常楽庵・談松庵・松寿庵が、寛政二年の由来書では年貢地となっている点は注目される。
また、延享の末寺帳で除地とされていた大舟寺・正持庵については、寛政二年の由来書では土地区分が明記されていない。ただし、大舟寺については旧地に関する除地の記載があるため、単純に除地から年貢地へ変更されたと判断することはできない。
延享と寛政の両史料で土地の区分が明確に確認できる九寺院について比較すると、次のようになる。寺院名 延享2年(1745) 寛政2年(1790)
佛日寺 除地 除地
福田寺 年貢地 年貢地
臥龍庵 年貢地 年貢地
光方寺 年貢地 年貢地
神護寺 年貢地 年貢地
松源庵 除地 年貢地
常楽庵 除地 年貢地
談松庵 除地 年貢地
松寿庵 除地 年貢地この比較では、九寺院のうち五寺院は土地区分が継続しており、四寺院は延享期の除地から寛政期の年貢地へと記載が変化している。
つまり、確認できる範囲では、年貢地から除地へ変更された事例はなく、除地から年貢地へ変わった事例が四寺院確認できる。
ただし、この変化が実際の土地制度上の変更を意味するのか、あるいは境内地の範囲や記載対象の違いによるものなのかは、慎重に検討する必要がある。特に、大舟寺のように現境内地と旧地の扱いが異なる場合もあるため、記載の変化をそのまま土地制度の変更とみなすことはできない。
それでも、延享期には除地とされていた複数の寺院・庵が、寛政期には年貢地として記録されていることは、寺院の土地制度を考えるうえで重要な事実である。
さらに、天保期の無住寺院と寛政期の土地区分を照合すると、次のような関係が確認できる。
寺院名 寛政2年の土地区分 天保14年の状況
臥龍庵 年貢地 享和2年から無住
常楽庵 年貢地 文化7年から無住
神護寺 年貢地 文政13年から無住
天光寺 年貢地 天保9年から無住
常福寺 除地 天保12年から無住
松寿庵 年貢地 天保14年から無住
正持庵 土地区分不明 天保14年から無住
光方寺 年貢地 無住開始年不明
薬王寺 寛政の一覧には記載なし 安永9年から無住
東光寺 年貢地 天保11年から無住この比較から、天保期に無住となっている寺院には、寛政期に年貢地とされていた寺院が多いことが分かる。
特に、臥龍庵・常楽庵・神護寺・天光寺・松寿庵・東光寺は、寛政期に年貢地と記載されており、その後に無住となっている。
一方、常福寺は除地でありながら天保十二年(1841)から無住となっている。また、正持庵は寛政期の土地区分が不明であるため、土地の区分と無住化の関係を判断することはできない。
このことから、年貢地であったことが無住化の一因となった可能性は考えられる。寺院境内地が年貢地であれば、土地の維持に一定の負担が生じる可能性があり、檀家や寺院収入が十分でない場合には、住持を常住させることが困難になったことも想定される。
ただし、年貢地であったことだけを無住化の原因とすることはできない。実際に除地であった常福寺も無住となっているため、寺院の経済状態は土地の区分だけでなく、檀家数、寄進、寺院の収入、住持を確保できるかどうかなど、複数の条件によって左右されていたと考えられる。
特に注目されるのは、臥龍庵・常楽庵について、天保の末寺帳に「無禄無檀」と明記されていることである。これは、寺院の経済的基盤が乏しかったことを示す直接的な記録である。
臥龍庵は無禄・無檀でありながら寺務・法用を務めていたが、常楽庵は寺務・法用も存在しなかった。この違いは、寺院の経済的基盤だけでなく、寺院としての活動状況にも差があったことを示している。
したがって、佛日寺関係寺院の無住化は、年貢地による負担だけでなく、無禄・無檀、檀家の減少、寺院収入の不足、住持の確保など、複数の要因が重なって進行した可能性がある。6 無住化後も維持された寺院ネットワーク
天保十四年の末寺帳から明らかになるもう一つの重要な点は、無住寺院が増加していたにもかかわらず、寺院間の管理関係が維持されていたことである。
正持庵・松寿庵・常福寺では、大舟寺が寺役・法用を担当していた。また、光方寺では福田寺が担当している。佛日寺も臥龍庵・常楽庵・天光寺・薬王寺・東光寺・神護寺などの寺務・法用に関与していた。
このように、住持が常住できなくなった寺院については、本寺や関係寺院が寺役・法用を引き受けることによって、宗教的な機能を維持していたと考えられる。
特に、談松庵については、天保の末寺帳に「川辺郡酒井村松源庵ヨリ兼帯仕候」と記されている。これは、松源庵が談松庵を兼帯していたことを示すものであり、無住と明記されていない寺院であっても、必ずしも独立した住持によって運営されていたわけではなかったことが分かる。
また、天保十四年の帳面には、大舟寺の監寺敬岩、松源庵の住持大痴、福田寺の住持本瑞など、寺院運営を担う僧侶の名前も記されている。これらの僧侶は、各寺院の運営だけでなく、周辺寺院の管理や法用にも関係していたと考えられる。
このような状況は、寛政二年の由来書に記された門末・門支配・兼帯の関係とも共通している。
つまり、佛日寺を中心とする寺院組織は、単に本寺と末寺という形式的な関係によって維持されていたのではなく、僧侶の兼帯や寺役・法用の代行、留守居の配置など、実際の寺院運営を通じて結びついていたのである。
無住寺院の増加は、各寺院の独立した運営能力が低下していたことを示す一方で、佛日寺・大舟寺・福田寺を中心とする寺院ネットワークが、そうした寺院を支える役割を担っていたことも示している。7 三つの史料からみた佛日寺の歴史的変化
以上の検討から、延享・寛政・天保の三つの史料には、それぞれ異なる時期の佛日寺関係寺院の姿が記録されていることが分かる。
延享二年(1745)の末寺帳は、佛日寺を黄檗山直末とする本末関係と、周辺寺院・庵の所属、土地の区分を示している。
寛政二年(1790)の「寺院由来記録之為」は、佛日寺の直接末寺だけでなく、門末庵・門支配所・配下寺院を含む十六軒の由緒と所属関係を整理しており、佛日寺が広域的な寺院ネットワークを形成していたことを明らかにしている。また、土地の区分については年貢地が十二軒、除地が二軒であり、寺院の経済的基盤が必ずしも一様ではなかったことが分かる。
天保十四年(1843)の末寺帳は、こうした寺院組織がその後どのように維持されていたのかを示している。無住寺院が十寺院確認でき、そのうち九寺院については無住開始年が判明する。さらに、無住後も佛日寺・大舟寺・福田寺が寺役・法用を担当し、留守居や兼帯によって寺院の維持が図られていた。
この三つの史料を通じてみると、佛日寺関係寺院は、十八世紀中頃には一定の本末関係と土地的基盤を持ち、十八世紀末には由緒と所属関係が整理された広域的な寺院組織を形成していた。しかし、十九世紀前半には無住寺院が増加し、各寺院が独立して住持を確保することが難しくなっていたと考えられる。
その背景には、年貢地による土地負担や、無禄・無檀といった経済的な問題があった可能性がある。ただし、無住化は土地制度だけで説明できるものではなく、檀家や寄進の状況、僧侶の確保、地域社会の変化なども含めて考える必要がある。
また、無住寺院の増加にもかかわらず、佛日寺を中心とする管理ネットワークは維持されていた。特に佛日寺が自らの末寺だけでなく、無本寺の寺院や神護寺のような黄檗山直末寺院の寺務・法用まで担っていたことは、同寺が地域における黄檗宗寺院の管理拠点として重要な役割を果たしていたことを示している。8 今後の研究課題
今回の三つの史料の比較によって、佛日寺関係寺院の組織的な変化と無住化の状況が明らかになったが、なお検討すべき課題も残されている。
第一に、天保十四年の末寺帳における除地・年貢地の記載を確認することである。今回整理した天保の記録には土地区分が示されていないため、天保期に土地の扱いがどのように変化したのかは確定できない。今後、原史料の前後の記載や関連する土地関係文書を調査する必要がある。
第二に、無住化した寺院の財政状況を明らかにすることである。特に臥龍庵・常楽庵については「無禄無檀」と明記されているが、その他の寺院については、無住となった直接の原因は分からない。寺院の収入、檀家数、寄進、年貢負担などを村方文書や寺院関係文書と照合することが重要である。
第三に、無住寺院の管理を担当した僧侶や寺院の活動を明らかにすることである。佛日寺・大舟寺・福田寺の住持や監寺がどのように周辺寺院を管理し、法要や寺務を維持していたのかを検討することで、近世後期における黄檗宗寺院の運営実態をさらに具体的に把握できる。
第四に、寺院の本末関係と実際の管理関係との違いを明らかにすることである。天光寺・薬王寺・常福寺・神護寺などの事例から、正式な本末関係とは別に、佛日寺が寺務・法用を担当する関係が存在していたことが分かる。このような関係がいつ成立し、どのような経緯で維持されていたのかを調べる必要がある。
これらの課題を今後の研究によって明らかにすることで、佛日寺を中心とする黄檗宗寺院の組織が、近世後期にどのように変化し、維持されていたのかを、さらに詳しく解明できると考えられる。
■おわりに
本稿では、寛政二年(1790)八月に作成された「寺院由来記録之為」を中心に、佛日寺を取り巻く末寺・門末・配下寺院の構成とその成立過程、黄檗宗への所属経緯、寺院境内地の土地制度について検討してきた。さらに、黄檗文化研究所に所蔵される延享二年(1745)の末寺帳および天保十四年(1843)の末寺帳を比較することによって、十八世紀から十九世紀にかけての佛日寺関係寺院の変遷と、無住寺院の実態についても考察した。
まず、寛政二年の「寺院由来記録之為」は、佛日寺の由緒だけでなく、同寺を中心とする末寺・門末・配下寺院および庵の由緒と所属関係を一括して記録した史料である。本書には、佛日寺の前身である松隣寺の建立から、承応三年(1654)の移転・再建、隠元和尚の招請、黄檗宗寺院としての成立に至る経緯が記されている。また、大舟寺・福田寺・東光寺などの直接末寺、臥龍庵・松源庵・常楽庵・談松庵などの門末庵、天光寺・常福寺・円戒庵などの門支配所をはじめ、複数の系列に属する寺院・庵の由緒が具体的に伝えられている。
これらの記録から、佛日寺を中心とする寺院組織は、単純な本寺・末寺の関係だけで構成されていたのではなく、門末・門支配・配下などの重層的な関係によって形成されていたことが明らかとなった。また、その関係寺院は摂津・丹波・河内の三国に及んでおり、地域を越えた広がりを持っていた。こうした寺院組織の形成には、既存寺院の再建・中興や無住寺院の再興、地域の檀那との関係、奉行所への届出など、さまざまな要因が関係していたと考えられる。
特に、慧林和尚とその門下の僧侶たちの活動は、佛日寺関係寺院の形成を考えるうえで重要である。慧林和尚は、大舟寺・福田寺・臥龍庵・松源庵・談松庵などの再建や開基に関わっており、その弟子である無範・別伝らも周辺寺院の再興に携わっていた。こうした僧侶の人的なつながりが、既存寺院の再建と黄檗宗への所属を進め、佛日寺を中心とする地方寺院組織の形成を支えていたと考えられる。この点は、竹貫元勝先生が『近世黄檗宗末寺帳集成』で明らかにした、既存寺院の再建や古跡復興を通じた黄檗宗の地方展開とも共通する特徴である。
また、寛政二年の由来書には、各寺院・庵の境内地について、除地・年貢地の別や土地の規模、知行主・代官などが記されている。土地区分が明記された十四軒のうち、年貢地は十二軒、除地は二軒であり、年貢地が多数を占めていた。このことから、佛日寺の末寺・門末・配下に属することが、必ずしも境内地の除地を保証するものではなかったことが分かる。宗派上の本末関係と土地制度上の扱いは、それぞれ異なる条件のもとに成立していたのである。
さらに、延享二年(1745)の末寺帳と天保十四年(1843)の末寺帳を比較することによって、寛政二年の由来書だけでは十分に把握できなかった、十八世紀中頃から十九世紀中頃にかけての寺院組織の変化が明らかになった。延享期の末寺帳には、佛日寺をはじめ、大舟寺・福田寺とその末寺、臥龍庵・常楽庵・談松庵などの寺院・庵が記録されている。一方、天保期の末寺帳には、これらの寺院の一部に加え、東光寺・常福寺なども記載されており、寺院の所属関係や管理状況をより具体的に知ることができる。
とりわけ注目されるのは、天保期の末寺帳に複数の無住寺院が記録されていることである。正持庵・松寿庵・臥龍庵・常楽庵・東光寺・光方寺・薬王寺・常福寺・神護寺などには、無住となった時期や、その後の寺務・法用の取り扱いが記されている。無住となった寺院のなかには、留守居を置いて寺院を維持するものや、本寺が寺務・法用を引き受けるものがあった。特に臥龍庵と常楽庵については、無禄・無檀であったことが明記されており、寺院の経済的基盤や檀家の存在が、住持の確保と寺院の維持に深く関係していた可能性がある。
これらの記録から、十九世紀中頃の佛日寺関係寺院では、すべての寺院に住持が常住していたわけではなく、無住となった寺院を本寺や他の関係寺院が支えることで、寺院組織が維持されていたことが分かる。例えば、臥龍庵・常楽庵については佛日寺が寺務を引き受け、大舟寺末の正持庵・松寿庵については本寺大舟寺が寺役・法用を務めていた。また、談松庵は川辺郡酒井村の松源庵が兼帯していた。このように、住持の常住が困難になった寺院を、近隣寺院や本寺が兼帯・管理する仕組みが存在していたのである。
この点からみると、佛日寺の役割は、末寺や配下寺院を形成し、その所属関係を統括することだけにとどまらなかったといえる。十九世紀には、無住となった寺院の寺務・法用を引き受け、留守居を置き、あるいは関係寺院との兼帯によって寺院の機能を維持する役割も担っていた。すなわち、佛日寺は、地域における黄檗宗寺院の形成拠点であると同時に、後にはその維持と管理を支える中心的な存在でもあったと考えられる。
ただし、無住化の原因については、現段階で一律に説明することはできない。臥龍庵・常楽庵の無禄・無檀という記載は、経済的基盤の弱さが無住化に関係していた可能性を示す重要な情報であるが、ほかの寺院については、檀家の減少、住持となる僧侶の不足、寺院の財政事情、地域社会の変化など、複数の要因を考える必要がある。また、延享・寛政・天保の各史料における除地・年貢地の記載を比較すると、土地の扱いに変化があった可能性も認められるが、各史料の記載対象や記録方法の違いも考慮しなければならない。したがって、土地制度の変化と寺院の無住化との関係については、今後さらに検討する必要がある。
以上のように、寛政二年の由来書と延享・天保の末寺帳を併せて検討することによって、佛日寺を中心とする寺院組織の形成から、その後の変容と維持に至るまでの過程を、ある程度具体的に把握することができた。十八世紀には、慧林和尚らの僧侶の活動を通じて既存寺院の再建・中興が進められ、佛日寺を中心とする末寺・門末・配下の関係が形成されていた。一方、十九世紀には、無住寺院が増加し、本寺や関係寺院による寺務・法用の代行、留守居の配置、兼帯などによって、寺院組織の維持が図られていた。この変化は、近世後期における黄檗宗地方寺院の実態を考えるうえで重要な事例といえる。
今後は、黄檗文化研究所などに伝来する関係文書との照合を進めるとともに、各寺院の村方文書、土地関係史料、領主・代官関係文書などを調査する必要がある。特に、無住となった寺院の経済的基盤や檀家関係、土地の除地・年貢地の変遷については、今回確認できた記載を手がかりとして、さらに検討を深めたい。また、天保期の末寺帳に記された留守居や住持の名前、寺務・法用の分担関係を追跡することによって、佛日寺と関係寺院との具体的な管理・運営の実態も明らかにできると考えられる。
本稿で取り上げた三種の史料は、それぞれ異なる時期と目的のもとに作成されたものであるが、相互に比較することによって、佛日寺を中心とする黄檗宗寺院組織の歴史的な変化を立体的に捉えることができる。これらの史料を保存・活用し、関係寺院や地域に残された古文書と照合していくことは、佛日寺の歴史を明らかにするだけでなく、近世黄檗宗の地方展開と、その後の寺院組織の維持・変容、さらには地域の仏教文化の歴史を解明するうえでも重要な意味を持つ。