■序文
仏とは「覚者(悟りを開いた者)」のことである。その悟りには「自覚(自ら悟ること)」「覚他(他者を悟らせること)」「覚行円満(悟りの実践が完全であること)」の三つがある。この三つの覚りが円満で明白であるため「仏」と呼ぶのである。
しかし、この円満で明白な三つの覚りというものは、もともと衆生の一つの心に備わっているものである。だからこそ「心と仏と衆生の三つには、何ら違いはない(心佛衆生三無差別)」と言われるのだ。
それにもかかわらず、人間は誰もがもともと完璧な悟りの本性(圓明之性)を備えているというのに、なぜ立ちどころにそれを見極めることができないのだろうか。それは誠に、我々が果てしない過去(無始劫)から積み重ねてきた業(カルマ)の力に縛られ、生死の迷いの世界を生まれ変わり死に変わりし、無明の網に捕らわれ、煩悩の膜で心が覆われてしまっているからにほかならない。
■佛日寺の創建と伽藍
寛文元(1661)年の春、摂州端翁太守(麻田藩主青木重兼公)が、摩耶山の麓に禅寺を建立した。
正面には「山門」を配し、中央に「仏殿」、奥に「方丈」を建てた。方丈の左手には「伽藍堂」、右手には先師を祀る「祖祠」を配置した。祖祠の後ろには「浴室」、会議を行う「至公軒」、「監寺寮」、「客寮」、「庫司」の隣には「聡松堂」を建てた。
太守が説法を聴くために駕籠を寄せる堂の正面には「蓮花池」を掘り、石橋を渡して、かつて中国の廬山で白蓮社を結んだ慧遠法師の故事に倣った。仏殿の東側には「鐘鼓楼」を建て、西側には食事を供する「応供堂」と典座(厨房)である「香積厨」を設けた。厨房から数十歩離れた場所には「緑野軒」を建てた。これはそこから平野を見渡すことができるため、その名が付けられた。
また山門の外には一亭を設け、初めは「観瀑」と名付けたが、後に「憩雲」と改めた。これは雲水(修行僧)たちが旅の途中で休憩するための場所である。小亭の右手には八幡宮を建てた。
これらの創建が概ね整うと、我が黄檗宗の開祖である隠元隆g禅師を拝請して開山とした。そして寺の名称について隠元禅師にお伺いを立てたところ、禅師は大きく「佛日」の二字を揮毫されたのである。
■佛日寺建立の歴史的背景
そもそも今から二千数余年前、大覚世尊(釈尊)は周の昭王の時代、甲寅24年4月8日。マガタ国のルンビニー園で摩耶夫人の右脇よりお生まれになった。釈尊の威光の光(佛日)は眩しく照り輝いていたが、この日本(此の土)へはその教えがまだ伝わっていなかった。後漢の明帝の永平十年(67年)になり、ようやくその教えが中国に流れて伝わり、今日までの二千数余年の間に「佛日」の輝きは各地を照らすようになった。その仏法の盛大さは何と素晴らしいことであろうか。
ましてや今回の太守(青木重兼公)による寺の建立は、昔のインドにおける維摩居士の丈室や舍衛国の講堂の建立にも匹敵する偉業である。さらに太守は、生まれながらにして備わる本覚の悟りと菩提の願いを携え、俗世の宰官身の姿として現れ、広く仏事を興し、霊鷲山での釈尊からの付嘱(仏法を護ること)を忘れていないお方である。
隠元禅師が開山となられた後、特に要請して「慧林性機和尚」を第一代の住持として招いた。太守の弟である興右居士は、自ら方丈の後ろに寝室を建て、朝夕に方丈を間近に見守りながら過ごした。これを「慈眼室」という即ち「内方丈」である。
■諸堂の完成
方丈の前には「一笠亭」という庵があり、慧林和尚が自ら結んだものである。時に応じて、そこへ登り景色を眺めるものである。
甲辰(1664)年の歳には、龍象(優秀な僧侶)が多く集まったため、太守はさらに佛殿の東に僧侶が安単する「及第堂」を建てた。堂の右側には「書記寮」、「知蔵寮」、そして養病堂を建てた。やがて慧林和尚が住職に就任し、国家の安寧を祈って開堂し、大いに説法(大転法輪)を行ったが、その光景は、まさに二千余年前、釈尊が説法された当時の「佛日」の盛況を目の当たりにするかのようであった。
慧林和尚は修行者を指導する合間をぬって、自ら筆を執り『華厳経』『法華経』『涅槃経』などの諸大乗経典を写経し、「普観堂」を建ててそこに奉納安置した。これは坂城の信徒宗間(そうかん)という者の助力によるものである。
この堂は内方丈の右側に位置し、非常に厳かで整っている。その他の回廊や付属の建物も次々と完成した。また寺の周りの四方の山々には多くの塔頭が建てられ、「禅海」「臥龍」「常楽」などと名付けられたが、これらは寺の僧侶たちが安居するための設えである。
寺の右手には樹木が鬱蒼と茂っている。そこには三つの石造物がある。一つは「開山(隠元)老人の髪塔」、一つは慧林和尚が自らのために造った「住持の寿蔵(生前墓)」、もう一つは太守が建てた「護法寿域」である。
■古蹟復興と奇瑞
この山には古くから寺が存在していたものの、長い年月が経って祭祀も途絶え、わずかに社(神祠)が一つ残るのみであった。この寺の再興は、実に太守の功績によるものである。
建設にあたって基礎工事(開基墾土)を行っていたところ、土中から突如として一面の古い鏡が掘り出された。その鏡には「準提観音」の尊像が浮かび上がっていたのである。このような素晴らしい霊験と偶然の出会いにより、この古刹の興隆が単なる偶然ではなく、深い仏縁によるものであることが初めて証明されたのである。
太守は大いに喜び、喜びのあまり眠れないほどであった。寺の建立が完成すると、修行僧たちの食糧として相当な石高の米を寄進した。また太守の弟も寄進し、寺の運営維持に充てさせた。これほどの大業は実に成し難いことと言わざるを得ない。
■結び
私(高泉)はこの地に滞在して久しいが、常々慧林和尚に次のように語っていた。
「この山の頂に寺の仏旗が誇らしく輝き、僧侶たちの行いは清らかで厳かであり、朝に香を焚き、夕に経を読誦し、仏祖の金言を称讃する。その儀式や作法を目の当たりにすると、かつて中国の古代三代(夏・殷・周)の盛んな礼楽でさえ、これを超えるものではないと思われる」と。
慧林和尚は、太守のこのような偉大な功績を深く思い、「これほど素晴らしい出来事でありながら、その功績を記念する文章を残さなければ、どうして太守の恩徳に報いることができようか」と考えられた。そこで私のもとへ執筆の依頼があり、この出来事を石に刻んで後世に残したいと望まれたのである。
私のような者がどうしてこの地に来て、軽々しく筆を執ることができようか。しかし、和尚からの重ねてのご要請があまりにも強かったため、固く辞退することもできず、ここに事の顛末を記録して後世へ書き残す次第である。
もし「佛日」の本質や深遠な教えについて述べるならば、どうしてこれだけの記録にとどまるものであろうか、到底言葉で言い尽くせるものではない。それについては、まさに慧林和尚ご自身でじっくりと語られるべき事柄なのである。