●佛日規條
■はじめに
「佛日規條」は、佛日寺第三代住職黙堂道轟禅師によって、享保七年(1722)に制定された、佛日寺の住職相承に関する重要な規則である。
佛日寺は、宗祖・隠元禅師によって開かれた寺院であるが、その伽藍の建立や寺院としての基盤を築き、宗門の法幢を打ち立てるうえで大きな功績を残されたのが慧林禅師であった。この功績を重んじ、慧林禅師を佛日寺の第一代として位置づけ、その法脈に連なる弟子・法孫たちが、代々住職を相承していくことを定めたのが、この「佛日規條」である。
本規條では、住職の継承にあたり、法嗣となった順序や前後にとらわれることなく、慧林禅師の法脈に連なる者の中から、その器量と力量を備えた人物を選び、檀越の意向も踏まえた公平な評議によって住職を定めるべきことが示されている。また、公正な相承を厳守するよう求めている。
この規條の制定にあたっては、当時の大檀越であった青木甲斐守重矩公、ならびに青木出羽守重行公もこれに関わり、両名の署名と花押が記されている。さらに、本文末尾には「末代に至るまで改変してはならない」と明記されており、この規條が将来にわたって守るべき不変の定めとして制定されたことがうかがえる。
佛日寺の歴代住職の相承を考えるうえでは、隠元禅師を開山とし、初代慧林禅師、第二代高泉禅師、第三代慧極禅師、第四代別伝禅師へと続く法脈の関係が重要となる。この規條の制定に伴い、第二代高泉禅師、第三代慧極禅師は住職の相承において準世代として位置づけられ、慧林禅師の愛弟子である別伝禅師が繰り上げられて、第二代住職に就くこととなった。これは、本規條が単に住職選任の原則を定めたものにとどまらず、実際の歴代住職の相承にも大きな影響を及ぼしたことを示している。つまり、佛日寺は、広く宗門の中から住職を迎える十方住持の寺院とは異なり、慧林禅師の法脈に連なる者が代々住職を相承する、一流相承の寺院としての性格を明確にすることとなった。
本規條は、単なる寺内の申し合わせではなく、佛日寺の法脈と住職相承の原則を後世に伝えるために制定された、極めて重要な歴史資料である。 ここに、その現代語訳と原文を掲げ、佛日寺の歴史を伝える貴重な記録として後世に残すものである。【現代語訳】
当寺は、普照国師(隠元禅師)によって開山され、創立された寺院である。
しかしながら、伽藍を建立し、仏法の法幢を打ち立て、宗旨を広めるための功績は、林老人(慧林禅師)にある。
このことから、慧林禅師を当寺の第一代と定める。したがって、慧林禅師の門流に連なる弟子や法孫たちにとって、当寺は帰依し、受け継いでいくべき道場である。
今後、慧林禅師の一派に連なる弟子・法孫の中から住職を選ぶにあたっては、大檀越とも協議し、公正な評議によって決定するものとする。
その際、法を嗣いだ順序や前後にとらわれることなく、その人物の器量と力量を見定め、住職にふさわしい者を定めるべきである。
私意によって後継者を決めることなく、公正な評議によって決定するという原則に違えてはならない。
今般、大檀越である青木甲斐守重矩公、ならびに同姓の青木出羽守重行公と協議のうえ、この規條を制定し、将来にわたる亀鑑(模範・手本)とするものである。
現住第三代 黙堂、これを定める。
享保七年壬寅 孟秋〔七月〕六日
右の規條は、末代に至るまで改変してはならない。
青木甲斐守重矩(花押)
青木出羽守重行(花押)
【本文】
佛日規條
一、当山雖為普照国師開山祖開
闢及創立、伽藍建法幢立、宗旨
功業在林老人、是故立為第一
代、然則為林老人之児孫者帰
宿之道場也、自今以後林老人
一 派児孫之内、莫大檀越遂、至
公之評唱、不論嗣法前後押、其
器量住持職可相定者也、私定
継席勿違至公、于今興大檀越
青木甲州太守重矩公同姓羽
州太守重行倶論□而、立此
規條為将来亀鑑者也
現住第三代黙堂立
享保七壬寅孟秋□六日
右此規條到末代不可有改変
者也
青木甲斐守重矩(花押)
青木出羽守重行(花押)■翻刻にあたって
本資料の翻刻にあたりましては、豊中市職員の濱田恭幸氏にご尽力を賜りました。
古文書の解読と翻刻には、専門的な知識と細心の注意を要するものであり、今回、「佛日規條」を紹介するにあたり、多大なるご協力をいただきましたことに、心より感謝申し上げます。
この文書を正確に後世へ伝え、佛日寺の歴史と法脈の継承を広く知っていただくための大きな一助となりました。
ここに記して、深く御礼申し上げます。