●慧林禅師参禅の偈十六首



 これまで『慧林禅師語録』の「参禅偈十首」(→慧林禅師の参禅の偈十首)を取り上げ、その口語訳と私見を掲載してまいりましたが、このたび慧林禅師の『滄浪聲』下巻に収められた「参禅の偈十六首」を読みますと、十首版と共通する偈がある一方で、内容をさらに展開した新たな偈も加えられていることが分かります。特に興味深いのは、十首版において示されていた「執着するな」「外に求めるな」「本分に拠れ」「奮激せよ」「果決せよ」「返照せよ」「戒を浄くせよ」といった主題が、十六番では別の表現によって繰り返されるだけでなく、そこに「率真」「造作を休める」「綿密密」「疑を断ずる」といった新しい角度からの説示が加えられていることであります。以下、『滄浪聲』下巻の「参禅の偈十六首」について、口語訳、私見、本文の順に掲載いたします。
 
  【口語訳】

一、
禅の修行をする人は、志を堅固にしなければならない。真摯に、そして激しく自らを磨き続ければ、頑丈な石でさえ穿つことができる。真の男子たる者は、血のにじむような修行をものともせず、一筋の血をほとばしらせるほどの覚悟をもって進めば、その勢いは天を突くほどになるであろう。

二、
禅の修行をする人は、ただ一つの教えや方法に執着してはならない。一つの法にとらわれ、それに拘束されてしまえば、それは治すことのできない病となる。真に力量のある修行者は、そのような棘の林から抜け出すことを知っている。羚羊が眠るとき、角を木に掛けて足跡を残さないように、本当の修行には、これといって掴むべき形も、残すべき跡もないのである。

三、
禅の修行をする人は、率直で真実な心を貴ばなければならない。ほんのわずかな粉飾や取り繕いであっても、自らの本心を傷つけることになる。心が明らかになれば、改めて目を開く必要などない。世界全体のどこに、本来の自己と自分とを隔てる一粒の塵があるというのか。

四、
禅の修行をする人は、切実な心をもって取り組まなければならない。決して忙しく外へ外へと向かい、真理を探し求めてはならない。突然、自らの本来の自己に突き当たったとき、初めて、その円満にして明らかな本性が、古今を超えて変わることのないものであると信じることができるのである。

五、
禅の修行をする人は、執着をやめなければならない。執着に溺れてしまえば、自らを救うことができなくなる。思い切ってすべてのこだわりを脱ぎ捨て、その跡を絶ってしまえば、たとえ目の前に仏祖が現れたとしても、それを掴もうとすることすらできないほど自由になる。

六、
禅の修行をする人は、勝ち負けを争ってはならない。本来の自己に立ち返れば、そこには何一つ欠けたところも、余分なところもない。目の前に現れている真実をそのまま受け取らず、あれこれと理屈をこねたり、小細工をしたりすれば、かえって迷いという病を重ねるだけである。

七、
禅の修行をする人は、激しく奮い立たなければならない。心の灯が明るくなったり暗くなったりしているならば、自ら灯芯を摘み、明るく燃え立たせなさい。長年身についた習気が消え去り、自己のあり方が一変したならば、豁然として世界が開け、大地に雷が轟くような大悟の境地に至るであろう。

八、
禅の修行をする人は、余計な造作をやめなければならない。心をあれこれ動かし、念を起こして計らえば、それによって自ら真実を遠ざけてしまう。霊妙な働きが自在に転ずるところでは、私情や執着を残してはならない。虚空いっぱいに広がるように、何ものにも束縛されず、真に磊落で自由な境地となるのである。

九、
禅の修行をする人は、妄りにあれこれと計らってはならない。どれほど貴重な玉の屑であっても、目に入れば目を曇らせる。立派な仏法の教えや知識であっても、それに執着すれば、かえって真実を見る妨げとなるのである。衣の中には、もともと宝珠がある。それを自ら取り出して用いればよい。どうして百方手を尽くして、外に高価な宝を探し求める必要があろうか。

十、
禅の修行をする人は、果断でなければならない。少しでもためらい、疑い、ぐずぐずしていれば、いつまでたっても終わることはない。鉄囲山の二重の障壁を一気に蹴り倒し、その一瞬に金剛のように堅固な足を現しなさい。

十一、
禅の修行をする人は、赤裸々でなければならない。何かを得たわけでもなく、何かを失ったわけでもない。そもそも自分のものとして取るべきものがなければ、捨てるべきものもない。それなのに、東へ行ったり西へ走ったりして、あれを取る、これは捨てると迷い続けているならば、東村の王おばさんに大笑いされることであろう。

十二、
禅の修行をする人は、どこまでも綿密でなければならない。悟りの働きを起こすとき、他人の言葉や境地に従って、それを求めてはならない。静かなところで仏祖の心を徹底して明らかにするならば、その霊妙な光は太陽の光をも圧するほどに輝きわたるであろう。

十三、
禅の修行をする人は、疑いを断ち切ることを貴ばなければならない。疑いを断ち切れば、そこに揺るぎない信が生まれる。そして、あれこれと思惟し、分別することを離れなければならない。自分の頭であれこれと意味を加工し、考えをこねくり回せば、かえって自分自身を執着という縄で縛ることになる。いつまでも来ることのない「驢年」を待つほどの長い時間がかかったとしても、最後には一切を脱ぎ捨て、無為の境地を証得するのである。

十四、
禅の修行をする人は、速やかに自らの本来の姿を返り照らさなければならない。真の道人には、分別して入り込むための余計な穴などない。生死や輪廻も、すべて空中に咲く花のようなもので、実体のないものである。それなのに、どうしてさらに深遠な「玄」を探し、また「要」を探して、あれこれと説き立てる必要があろうか。

十五、
禅の修行をする人は、戒を清浄に保たなければならない。戒の根本が清浄でなければ、邪で穢れた世界に入り込むことになる。無常はあっという間にやって来る。やがて眼の光が失われ、姿を変えて生まれ変わりながら、過去に作った業の負債を償うことになるであろう。

十六、
禅の修行をする人は、本来もっとも安楽な存在である。正しい気概を持った衲僧には、頭に角があるかのような威徳が備わっている。ある朝、一気に大虚空そのものを打ち砕き、三界のどこにも依るものがなくなれば、もはや学ぶべきものさえない「絶学」の境地に至るのである。



【参禅の偈の私見】

 『滄浪聲』下巻に収められた「参禅の偈十六首」を読み進めてみますと、十首版と同じ言葉や主題が繰り返されているものがある一方で、十首版には見られなかった新しい説き方も加えられております。しかし、十六首全体を通して見ると、そこに流れている基本的な考えは十首版と大きく変わっていないように思われます。それは、参禅とは外に向かって何か特別なものを探し求めることではなく、もともと自らに具わっている本分、本来の自己に立ち返り、そこを覆っている執着、分別、習気、造作を徹底して離れていくことである、ということであります。

 十六首版では、このことがさらに多様な角度から説かれているように思われます。まず第一首は、十首版の第九首とほぼ同じ主題を持っています。そこでは「志を堅くせよ」と説かれ、石をも穿つほどの激しい修行の決意が求められていました。十六首版の第一首でも、まさに同じように、参禅者の「志」の堅固さが説かれています。禅というと、静かに坐り、穏やかな心になることを思い浮かべることもありますが、慧林禅師の言葉には、それとはかなり違った激しさがあります。「激切に磨く」「石をも穿つ」という言葉からは、参禅を単なる心の安らぎとしてではなく、自分自身を徹底して究め尽くす修行として捉えておられることが感じられます。(一)

 第二首は、十首版の第一首と極めて近い内容です。「一処の法に執すること莫れ」と説き、一つの教え、一つの理解、一つの境地を掴んで、それを絶対のものとしてしまうことを戒めています。十首版では「一に執着するな」「死法に拘牽されるな」と説かれていましたが、十六首版でも同じように、一つの法に固定されることを「錮疾」という病として捉えています。そして最後に羚羊の譬えが出てきます。羚羊が角を木に掛けて眠るため、足跡を残さないという有名な禅の譬えによって、本当の修行には「これが修行である」という固定された跡すら残らないことを示しているように思われます。(二)

 第三首は、十首版には直接対応するものがない、新しい説示と考えられます。ここで特に重要なのは「率真」という言葉です。率真とは、飾らず、取り繕わず、真実そのままであることです。禅の修行というと、何か特別な境地を身につけることのように考えてしまいがちですが、慧林禅師はむしろ「粉飾」を捨てることを説いておられます。ほんのわずかな粉飾であっても、それが自らの本性を傷つける。そして「心明らかなれば重ねて眼を開くを用いず」と続きます。本当に明らかになったならば、改めて別の世界を見ようとする必要はありません。いま目の前にある世界そのものが、すでに本来の自己から離れていないからです。「遍界何ぞ曾て一塵を隔てん」という言葉は、自己と世界との間に、本来、隔たりなどないことを示しているように思われます。(三)

 第四首は、十首版の第二首とほぼ同系統の偈です。十首版では「須死心」が説かれていました。十六首版では「心を切にすべし」としながら、「波波として外に向かって尋ねること莫れ」と説かれます。つまり、真剣に修行せよ。しかし、その真剣さを外に向けてはいけない。このところが非常に重要なのではないでしょうか。外に求めないということは、何もしないという意味ではありません。むしろ外に求める心を止めて、徹底して自らの本来のところに向かうのであります。そして「忽然として自家底に撞著せば」と続きます。自家底とは、自分自身の本来のところです。それに突然突き当たったとき、初めて「円明」が古今を超えて変わらないことを知る。悟りとは、新しいものを手に入れることではなく、もともとそこにあるものに撞著することだという考えが、ここにも表れているように思われます。(四)

 第五首では「執著を休めよ」と説かれます。これは十首版の第七首「赤灑灑」に通じるところがあり、また十首版全体に流れている「執着を離れよ」という主題とも深く結びついています。特に「脱略絶蹤由」という表現は印象的です。執着を捨てるだけではなく、その「捨てた」という跡すら残さない。「自分は執着を捨てた」「自分は悟った」という意識を持ってしまえば、そこにもまた新しい執着が生まれます。だからこそ「絶蹤由」として、跡を絶つ。そして「親佛祖到來難摸索」と続きます。仏祖が目の前に現れたとしても、掴むことができない。これは仏祖を否定するというより、仏祖を一つの対象として掴もうとする心を否定しているのではないでしょうか。(五)

 第六首は、十首版の第三首とほぼ同じ内容です。「莫闘勝」として勝負を争うことを戒め、「本分」に拠れば欠けたところも余分なところもないと説きます。そして「現成公案不承當」と続きます。目の前に現れている現実そのものを受け取らず、別のところに答えを求めようとすることが、迷いを増す原因となる。十首版では「鑚亀打瓦」という表現でしたが、十六首版では「□手打瓦」となっています。いずれにしても、目の前の現成を承当せず、あれこれと手を加え、別の答えを探そうとすることへの批判と見ることができます。ここには、禅の修行を他人との競争や知識の競争にしてはならないという慧林禅師の一貫した姿勢が表れているように思われます。(六)

 第七首は、十首版の第四首と同系統です。「須奮激」「心燈明滅宜挑剔」「習氣消融」という言葉が、ほぼ同じ主題を展開しています。ただし、十六首版では最後が「豁然大地如雷霹」となっており、世界全体が雷鳴のように一気に開けるという印象が強くなっています。ここから感じられるのは、慧林禅師のいう参禅が、単に知識を得ることではないということです。自分の中に長年染みついている習気を消し、ものの見方そのものが変わるところまで徹底しなければならない。その変化を「面皮を転ずる」と表現しているのであり、外見が変わるというより、自己を覆っていた古いあり方が一転するということでありましょう。(七)

 第八首は、十首版には直接対応する偈がなく、新たに加えられたものです。ここでは「造作を休めよ」と説かれています。造作とは、作為や計らいです。「こうすれば悟れる」「こう考えれば正しい」「こういう境地にならなければならない」と、自分であれこれと作り上げようとする心そのものが、かえって自分を真実から遠ざけてしまう。「挙心動念自擔閣」という言葉には、心を起こし念を動かすことによって、自らが自らを棚上げしてしまうような意味が込められているように思われます。そして「不留情」と説かれます。ここでいう「情」は、単なる感情ではなく、私情や計らい、執着を含めた心の働きとして理解することができるでしょう。それらを残さなければ、虚空に横たわるように、真に磊落な境地が現れる。この「造作を休める」という考えは、十六首版の中で重要な新しい主題の一つではないかと思われます。(八)

 第九首は、十首版の第五首とほぼ同系統です。「衣裏有珠」という宝珠の譬えによって、求めている宝は最初から自分の衣の中にあると説かれます。さらに十六首版では、「玉屑由来翳眼睛」とあります。宝玉の屑であっても、目に入れば目を曇らせる。これは非常に重要な表現です。宝玉であれば普通は価値のあるものですが、それが目に入ったなら、どれほど貴重なものでも障害となる。同じように、仏法の教えや禅の知識も、それ自体が悪いのではありません。しかし、それを「自分の知識」として掴んだ瞬間に、真実を見る妨げになることがある。ここには、教えそのものへの執着さえも警戒する慧林禅師の厳しさがあります。(九)

 第十首は、十首版の第六首と同系統です。「要果決」として、迷いやためらいを断ち切ることを求めています。十首版では「稍渉遅疑何時歇」に続いて「鉄囲山を蹴り倒す」という激烈な表現が用いられていました。十六首版でも同じように、鉄囲山を蹴り倒し、金剛の脚を現せと説かれます。ここでの鉄囲山は、参禅者が最後まで抱えている迷い、疑い、固定観念などを象徴していると考えることができます。それを少しずつ迂回するのではなく、蹴り倒す。この激しさこそ、慧林禅師の参禅観の一つの特徴であるように思われます。(十)

 第十一首は、十首版の第七首と非常に近い内容です。「赤灑灑」として、一物も身につけない赤裸々な境地を説き、「取非共有復何捨」と続きます。何かを取るということもなく、何かを捨てるということもない。この考え方は、十首版の「取非其有復何捨」と同じです。自分のものとして何かを掴むから、それを捨てなければならなくなる。最初から「自分のもの」という観念を離れていれば、捨てる必要もありません。そして東へ行ったり西へ走ったりする姿を、東村の王大姐に笑われるという、非常に庶民的でユーモラスな表現で締めくくります。こうしたユーモアを交えながら、二元的な思考に振り回されることを戒めているところが興味深いところです。(十一)

 第十二首は、十首版には直接対応するものがない新しい偈です。ここでは「綿密密」という言葉が中心となっています。参禅は中途半端であってはならない。どこまでも綿密に、隙なく、自らを究めなければならない。しかし、その際にも「他に従って覓むるを切忌せよ」と説きます。他人の悟りを借りてはいけない。他人の言葉を覚え、その言葉を自分の悟りだと思ってはいけない。自分自身のところで仏祖の心を洞明するのであります。そして、そのときに現れる「霊光」は、太陽の光をも圧するほどだという。ここには、他人に依存しない参禅者自身の主体性が強く説かれているように思われます。(十二)

 第十三首も、十首版には直接対応しない新しい内容です。ここで中心となるのは「断疑」です。参禅において疑いを持つこと自体を否定しているというよりも、最後まで疑い続け、考え続け、分別し続ける心を断ち切れという意味で読むことができるでしょう。「疑を断じて信を生じ、思惟を絶す」。疑いが断たれたところに信が生まれ、そこではもはや分別的な思惟によって真理を掴もうとする必要がなくなる。逆に、自分の意識であれこれ「加工」してしまえば、それは執着という縄をさらに強くすることになります。「驢年」という、いつ来るとも知れない年を持ち出すことで、悟りを未来に先送りしてはならないという厳しさも感じられます。(十三)

 第十四首は、十首版の第八首と明らかに同系統です。十首版では「亟返照」として、速やかに自らを返り照らすことが説かれていました。十六首版でも「亟返照原本色」となっています。つまり、外に向かって答えを求めるのではなく、まず自分自身の本来の姿を照らし返す。そして「生生の処は等しく空花なり」として、生死や輪廻そのものも空花に等しいと説きます。そうであれば、さらに「玄」や「要」を探し求め、言葉を積み重ねていくことに何の意味があるのか。ここには、禅語を知識として集めることへの強い警戒が表れております。禅は、禅についてたくさん知ることではなく、最後には自らを返照することでなければならないのであります。(十四)

 第十五首は、十首版の第十首とほぼ同系統です。「須浄戒」「戒根不浄」「無常迅速」「眼光」と、十首版の最終首と共通する内容が多く見られます。ここは十六首全体を考える上でも非常に重要なところです。慧林禅師は、本来の自己を説き、外に求めるなと説いています。しかし、それは「何をしてもよい」ということではありません。むしろ、本来の自己を究めようとする修行者だからこそ、身の行いを正し、戒を清浄に保たなければならない。無常は迅速にやって来る。死はいつ訪れるか分からない。そのときには自らの行為の結果を自ら引き受けなければならない。この第十五首によって、慧林禅師の禅が単なる思想や哲学ではなく、具体的な修行生活と行為を厳しく問うものであったことが改めて分かるのであります。(十五)

 そして第十六版が、十六首全体の結びとなります。「参禅人最安楽」という言葉は、一見するとこれまでの激しい修行の言葉と少し違っているようにも感じられます。しかし、ここでいう「安楽」は、何もしなくてよいという意味ではないでしょう。執着するものがなく、外に求めるものがなく、依存するものがなくなったとき、そこには本当の意味での安楽がある。「正気衲僧頭有角」という表現には、修行者の堂々とした気概が示されています。そして「一朝触砕太虚空」と続きます。最後には、世界そのものを突き破る。三界に依るものがなくなり、ついには「絶学」となる。「絶学」とは、単に学問をしなくなるということではなく、もはや外から何かを学び取って完成しようとする必要がない境地と考えることができます。十六首の最後にこの「絶学」を置いたことには、大きな意味があるのではないでしょうか。外に求めるな。一つの法に執着するな。他人の境地を借りるな。言葉を掴むな。造作するな。思惟をこねくり回すな。本来の自己を返照せよ。そして最後には、三界のどこにも依ることなく、学ぶべきものさえないところに至る。これが、十六首を通して示される参禅の一つの道筋であるように思われます。



  【十首版と十六首版との対比と総括】

 十六版のうち、十首版と明瞭に同系統と考えられるものが十一首、新たに加えられたと考えられるものが五首あります。
 同系統の十一首は、第一・第二・第四・第五・第六・第七・第九・第十・第十一・第十四・第十五です。
 一方、十首版には直接対応するものが見当たらず、十六首版で新しく加えられたと考えられるものは、第三・第八・第十二・第十三・第十六です。
 ただし、「新しい」といっても、これら五首が十首版の思想と無関係ということではありません。むしろ逆であります。「率真」は執着や粉飾を離れることにつながり、「造作を休める」は妄りな計らいを離れることにつながり、「綿密密」は徹底した参禅と外に求めないことにつながり、「断疑」は外に求める心や分別を断つことにつながり、「三界無依・絶学」は、本来の自己に徹底して立ち返った最後の境地につながっています。
 十首版では、「一つの法に執着しない」「外に向かって求めない」「勝負を争わない」「奮激する」「妄りに計らない」「果決する」「取るものも捨てるものもない」「自らを返照する」「志を堅くする」「戒を浄くする」という、参禅者が守るべき基本的な姿勢が、非常に端的に示されています。そして、その根底には、「外に求めるな」という考えと、「自らに本来具わっているものを究めよ」という考えがあります。
 十六首版になると、十首版の主題が繰り返されるだけではありません。第三首では「率真」という言葉によって「飾らないこと」「取り繕わないこと」が説かれます。第八首では「造作を休めよ」として、自分で悟りの形を作ろうとすること自体が問題にされます。第十二首では「他に従って覓むるを切忌せよ」として、他人の境地や言葉を借りることが戒められます。第十三首では「断疑生信」「絶思惟」として、疑いや思惟を最後まで握りしめることを離れるよう説かれます。そして第十六首では「三界無依成絶学」として、ついには三界のどこにも依存せず、学ぶべきものさえない「絶学」に至ることが示されます。
 このように見ると、十六首版では十首版に比べて、「何をするか」だけでなく、「何をしようとする心そのものをどう離れるか」というところまで、一段深く説かれているように思われます。
 十首版にも、外に求めることを戒める思想は明瞭にあります。第二首の「向外尋」、第五首の「衣裏有珠」、第八首の「亟返照」などが、その代表であります。十六首版では、これがさらに強調されています。第四首では「向外尋」をそのまま受け継ぎ、第九首では「衣服裏有珠」と説き、第十二首では「従他覓」を戒め、第十四首では「返照」を説き、第十六首では「三界無依」と結びます。つまり、「外に求めない」「他人に依らない」「どこにも依らない」という方向が、十六首全体を貫いているように見えます。
 しかし、「外に求めるな」は「修行するな」という意味ではありません。ここが慧林禅師の言葉を読む上で、最も注意しなければならないところではないでしょうか。「本来具わっている」と説くのであれば、「では修行など必要ないのではないか」と考えてしまうことがあります。しかし、慧林禅師は決してそのようには説いておられません。むしろ、「須奮激」「志須堅」「要果決」と、激しい修行を要求しています。さらに「須浄戒」と戒の清浄を求めています。つまり、悟りを外から獲得する必要はない。しかし、自分を覆っている習気や執着を徹底して除かなければならない。この二つは矛盾しているようでいて、慧林禅師にとっては一つのことであったのではないでしょうか。
 十首版第七首と十六首版第十一首に共通する「取非其有復何捨」という言葉も、この十六首全体を理解する上で非常に重要です。悟りを得ようとする。しかし、何かを得たと思えば、それを「自分の悟り」として所有してしまう。そこで今度は「執着を捨てなければならない」と考える。ところが、「自分は執着を捨てた」と思った瞬間に、また新しい自己意識が生まれる。だから、取ることも、捨てることもない、というところに行かなければならない。「赤灑灑」という表現は、何かを身につけた状態というより、何も所有しない、何にも掴まらない状態を表しているように思われます。
 また、十六首目の「絶学」は、十首版にはなかった結論です。十首版は第十首の「浄戒」で終わります。そこでは無常と因果が説かれ、参禅者に対して、修行を怠ることのないよう厳しく戒めて終わります。それに対して十六首版は、第十五首で同じく「浄戒」を説いたあと、第十六首を加え、「最安楽」「三界無依」「成絶学」という、非常に大きな結論へと進みます。
 これは興味深い違いであります。十首版の最後が、「無常は迅速である。だから戒を浄くして修行せよ」という厳しい警告で終わるのに対して、十六首版ではその先に、「三界に依ることなく、絶学となる」という究極的な自由の境地を置いています。その意味では、十六首版は十首版を単に六首増やしたものではなく、十首版で示された修行の道を、さらに先まで押し進めた構成として読むこともできるのではないでしょうか。
 以上、「参禅の偈十首」と『滄浪聲』下巻の「参禅の偈十六首」を比較してみますと、十六首版では、十首版にあった内容の多くが別の言葉で繰り返されております。しかし、それは単なる重複ではなく、同じ参禅の思想を、さらに異なる方向から照らし出したものと見ることができます。
 結局のところ、十首版と十六首版を貫いているのは、外に仏を求めない。内に何かを掴まない。言葉や教えを所有しない。他人の悟りを借りない。自らを返照する。そして、そこに至るための修行は徹底して行う。という一つの姿勢であります。
 本来具わっているから修行しなくてよいのではない。本来具わっているからこそ、それを覆い隠している執着や習気を徹底して除いていく。その修行を、志を堅く、果決に、奮激して行う。そして最後には、何かを得たという意識さえなくなり、三界のどこにも依るものがなくなる。そのとき「絶学」となり、初めて「最安楽」と言える境地に至る。このように「参禅の偈十首」と「参禅の偈十六首」を続けて読むことで、慧林禅師が参禅者に求めておられたものの全体像が、これまでよりも少し明らかになるのではないかと思われます。



  【本文】

  参禅偈十六首

 参禪人志須堅激切磨隴石也穿那個男兒皮沒血一絲□出便沖天

 参禪人莫執一處法拘牽成錮疾好手還他出棘林羚羊掛角無尋跡

 参禪人貴率真些毫粉飾便傷神心明不用重開眼遍界何曾隔一塵

 参禪人須応心切莫波波向外尋忽然撞著自家底始信圓明非古今

 参禪人休執著水淹沈莫救藥等�闥E略絶蹤由親佛祖到來難摸索

 参禪人莫闘勝據本分分明無欠剰現成公案不承當□手打瓦重増病

 参禪人須奮激心燈明滅宜挑剔習氣消融轉面皮豁然大地如雷霹

 参禪人休造作挙心動念自擔閣霊機轉處不留情横亘虚空真磊落

 参禪人莫妄営玉屑由来翳眼睛衣服裏有珠自取用何須百計覓連城

 参禪人要果決稍渉遅疑何時歇脚□倒鐵圍山両重刹那露出金剛脚

 参禪人赤灑灑取非共有復何捨與麼東去又西馳笑殺東村王大姐

 参禪人綿密密發機切忌従他覓冷地洞明佛祖心霊光照耀傾天日

 参禪人貴断疑断疑生信絶思惟者意加工増執縛驢年撒脱證無爲

 参禪人亟返照原本色道人無孔竅処生生処等空花説甚覓玄又覓要

 参禪人須淨戒戒根不淨入邪叢無常迅速眼光沈換面改頭償宿債

 参禪人最安楽正氣衲僧頭有角一朝觸碎太虚空三界無依成絶學   ※残念ながらHPでは複雑な文字が出ません