●初代慧林性機禅師



 佛日寺の初代住持は宗祖隠元禅師の一番弟子である慧林性機禅師です。
 慧林禅師と親交のあった天龍寺202代住持の虎林中虔禅師は

  夫有非常之人立非常之功吾於老師見之矣  『慧林禅師七十壽』

と人物を評されています。その生涯では隠元禅師の名代として江戸へ登城、隠元禅師の開創された佛日寺の初代住職を拝命、本山萬福寺3代住職拝命等の大役を務められました。 しかし、宗門においても世においても名を知られていない人物です。

 このページでは稚拙ながらも慧林禅師の生涯を出来るだけ詳細に紹介していきたいと考えています。随時、内容の更新・訂正をしてゆく次第であります。



「慧林」 和風成道樹 佛日出慧林






   ― 明 国 時 代 ―

 慧林禅師(以後慧林)は万暦37年(1609)明の福建省福州福清県に生まれる。父親は科挙の明経科に合格しており学問の家系であった。 幼少より儒教を学んでいたが明末の動乱によって、諸行無常を痛感し、仏教へ傾倒するに到る。齢40歳にして補山万歳寺の祇園禅師のもとで剃髪する。 翌年(諸説有)、萬福寺(古黄檗)の隠元禅師(以後隠元)のもとへ移り具足戒を受けて以後、師事することになる。
 文筆の才能く2度にわたり「記室」の配役を受ける。順治11年(1654)5月、渡航のため隠元とその弟子達に随行して港町厦門に移る。その時より「独知性機」と号する。同7月に長崎へ渡航する。

   ― 日 本 時 代 ―

 長崎に華僑の建立した寺院がある。中でも興福寺、崇福寺、福済寺は三福と称される。その中の興福寺にて隠元を指導者として集中修行である結制を行うことになり慧林は「記室」を命じられる。 承応4年(1655)には僧衆の進退を司る「維那」を命じられる。
 翌年、臨済宗妙心寺(龍華院)の竺印祖門禅師(1610年〜1677年)の助けもあって、隠元らと共に龍渓性潜禅師(龍渓)の住持していた普門寺に移る。龍渓は妙心寺の住持を数度務めたこともある高僧であるが、 渡来僧の隠元に深く師事し江戸幕府に働きかけ萬福寺の創建に深く関わる人物である。 慧林は普門寺での冬期結制では配役「西堂」を務める。明暦4年(1658)、龍渓と麻田藩主青木重兼公(以後重兼)の働きかけによって隠元は江戸城へ赴き 4代将軍徳川家綱公に拝謁する。この隠元の留守の間、慧林は普門寺の「監守」を命じられる。翌年、遂に幕府より萬福寺を建立する許可を得て、更に翌年には建立の地として宇治大和田を選び幕府に認められる。 万治4年(1661)、慧林は隠元の名代で寺地を賜った御礼に登城する。同年5月、遂に重兼に請われ佛日寺の住職となる。 延宝八年(1680)萬福寺3代目住持となり、佛日寺を高泉禅師に任せ晋山する。同年、御水尾法皇葬儀の際に京都泉涌寺にて拈香師を務める。度々体調を崩し翌年11月11日、周りに弟子を集め端坐して遺偈。

 来也錯 去也錯 一隻艸鞋 活如龍 打翻筋斗 錯 錯 錯

 端山(重兼)公が入室して一瞥するや遷化する。世壽七十三歳。付法の弟子には別傳道経、石雲道如、香国道蓮、黙堂道轟等。慧林の法燈は「龍興派」という。



◆慧林禅師の著作

  ・佛日慧林禅師語録一巻

  ・慧林禪師語録六巻

  ・佛日慧林和尚七十壽章

  ・黄檗堂頭大和尚末期日録

  ・佛日慧林和尚耶山集

  ・滄浪聲

  ・麻耶山寺志




◆慧林禅師の法嗣

  別傳道経

  石雲道如

  香国道蓮

  晦岩道煕

  黙堂道轟

  喝雲道威