●初代慧林性機禅師




 佛日寺の初代住持は宗祖隠元禅師の一番弟子である慧林性機禅師です。
 慧林禅師と親交のあった天龍寺202代住持の虎林中虔禅師は「そもそも非凡な人物は、非凡な功績を打ち立てる。私は慧林老師において、そのことを実際に目の当たりにした。」

 夫有非常之人立非常之功吾於老師見之矣 『慧林禅師七十壽』

と記し、その人物と功績を高く称えています。その生涯において、隠元禅師の名代として江戸に登城し、隠元禅師が開創した佛日寺の初代住持を務め、さらに本山萬福寺第三代住持を拝命するなど、黄檗宗の草創期における重要な役割を担われました。これほど重要な役割を果たした慧林禅師ですが、今日では、その名も生涯も広く知られているとは言い難いのが現状です。しかし、慧林禅師の歩まれた生涯をたどると、隠元禅師によって日本へ伝えられた黄檗の禅が、いかにして日本の地に根を下ろし、受け継がれていったのか、その一端を知ることができます。

 本ページでは、現存する伝記・塔銘・語録などの史料をもとに、慧林性機禅師の生涯とその事績をできる限り詳しくご紹介していきます。なお、史料の解読や年代の比定などには、今後さらに検討を要する部分もあります。そのため、内容については随時、調査・確認を行い、加筆・訂正を重ねてまいります。



「慧林」 和風成道樹 佛日出慧林







   ― 明末時代 ―

 慧林禅師は、諱を性機、号を慧林といい、明国福建省福州府福清県小橋の鄭氏に生まれる。俗姓は鄭氏。鄭家は宋代の「一拂先生」と称された鄭介公の後裔と伝えられ、代々学問に秀でた人物を輩出した家柄であった。父は学問を修めた廩生で、母は邵氏である。
 万暦37年(1609)9月8日、辰の刻に生まれる。幼少より聡明にして学問を好み、詩文と儒学を熱心に学んだ。兄弟の中でも特に才知に優れていたため、親族からは将来を大いに期待されたという。しかし、慧林自身は世俗的な栄達や名声には心を寄せず、幼い頃より仏教僧と親しく交わり、仏法について語り合うことを好んだ。成長して世俗の世界に身を置きながらも、その心はすでに世俗の外にあった。
 やがて明末の動乱の時代を生きる中で、世の無常を深く感じたものと考えられる。齢40歳になろうとする頃、遂に儒学者としての世俗の道を捨て、仏門に入ることを決意する。
 順治6年(1649)秋8月、福清の補山に赴き、祇園卉公禅師のもとで剃髪出家する。この時、慧林は、「今すでに俗世を捨てた。これより仏法を深く研究し、仏・国家・父母・衆生より受けた四恩に報いなければならない。もしそれができなければ、儒学を捨てて仏門に入った自分の志に背くことになる」(今既に俗を棄つ。まさに大法を研明して、以って四恩を報すべし。否ずば則ち、寧ろ儒を捨て釈に入るの志に負かざるや。)と固く決意したという。
 出家後、笠をかぶり草鞋を履き、歩いて古黄檗山へ向かう。そこで黄檗山の開山、隠元隆�g禅師に謁す。隠元は慧林を一目見るや、その才知と器量を認め、「この人物には大きな器がある」として僧堂に入れて修行させた。(隠元一見、甚だ器重して堂に入らせしむ。)慧林は、「ついに本当の師に出会うことができた」と喜び、隠元のもとで一心に参禅した。(師参学、師を得たと喜びて、力て青州布衫の公案を究む。)特に「趙州布衫」の公案に深く取り組み、心盤維那和尚、即非如一和尚らにも教えを求め、昼夜を問わず修行に励んだ。この年、戒壇に登って菩薩戒を受ける。
 ある夜、静かに坐禅していると、灯火の花がぽとりと落ちるのを見た。その瞬間、身心が一時に空寂となるような深い体験を得る。これを維那に語ったところ、「これは禅定によって一時に現れた境界であって、究竟の悟りではない」(此是塵労、暫に息て、定力、初め成る。楞厳に所謂、光影邉の事、究竟にあらざるなり。)と諭された。慧林はこの言葉を聞いて満足することなく、さらに参究を深めた。
 また、ある時、隠元の説法の場に進み出て問答を行った。慧林が、「私は黄檗山に来る以前から黄檗の禅を学んでいました。しかし実際にここへ来てみると、かえって黄檗の禅を疑っております」(未だ黄檗に到らずに黄檗の禅に参ず。即今到るや、黄檗の禅を疑ふ)と言うと、隠元は、「私は、もともと一文字も法を説いたことはない。いったい何を疑うのか」(我這裡一字も無し。個の什麼をか疑ふ。)と応じた。慧林は、「紅炉点雪」と答え、さらに問われて、「天に倚る長剣、人に逼って寒し」と答えた。隠元はこれを認めた。慧林は礼をして退き、さらに修行を深める。
 翌年、慧林はその文才を認められ、寺院の文書を司る「記室」に抜擢される。しかし、役職を得たからといって作務を怠ることはなかった。毎日草鞋を履いて他の僧と共に働き、肩に荷を担ぎ、少しも労苦を嫌わなかったという。文筆に秀でる一方で、身体を使う作務も厭わない。この文武両面にわたる実直さは、後の慧林の人柄をよく表している。また、二度にわたり「記室」の配役を受けたことからも、その文章力がいかに高く評価されていたかがうかがえる。

   ― 東渡 ―

 順治11年(1654)夏、隠元は日本からの招請を受け、渡日することとなった。慧林もこれに随行するため厦門へ移り、この頃から「独知性機」と号したと伝えられている。同年7月、慧林は隠元やその弟子たちとともに長崎へ渡った。日本では承応3年(1654)にあたる。
 この東渡に際しては、隠元に従って日本へ渡ることをためらう弟子たちが多く、誰も率先して同行しようとはしなかったという。そのとき慧林だけが腕をまくって一声を発すると、諸僧は皆、影が形に従うように慧林に従ったと伝えられている。この逸話は、慧林が弟子たちを率いるだけの強い存在感を持っていたことを示している。その後、一行は日本へ渡り、黄檗の教えを大いに広めていくこととなった。(嚮に当に黄檗の祖翁将に航海して東せむとし、諸子逡巡して競わざるに、師独り袒左して一呼すれば、衆皆景従し、肆に東渡して化を旺にす。)

   ― 長崎上陸 ―

 長崎に到着した慧林は、港町の様子を「舟到長崎 七月初五晩」と題した詩に詠んでいる。長い航海を終えた夜、長崎の浜辺に宿をとり、町には数多くの家々の灯火が並び、夜警の拍子木の音が響いていたという。また、日本語を耳にして中国とは異なる異国の地に来たことを実感する一方、日本の風俗や人々の様子には、かつての太平の世を思わせるものを感じていた。さらに、夜の静けさの中で寺院の鐘の音を聞き、近くに仏寺があることを知った様子も詠まれている。(半月湛濤寄此身 到來猶自宿江濱 燈懸古市千家火 柝撃濱更一夜人 纔聽方言非尚漢 已聞風�ヘ是餘泰 疎鐘何處敲新月 知有梵宮在近隣)
 長崎には華僑によって建立された興福寺、崇福寺、福済寺の三寺があり、これらは「長崎三福寺」と称された。隠元を指導者として興福寺で結制が行われると、慧林は「記室」を命じられ、その文書を担当する。承応4年(1655)には僧衆の進退を司る「維那」となる。暑さで金属さえ溶けるような日も、寒さが骨身に染みる日も、慧林は一日として参究する公案を忘れなかった。

   ― 日本の禅僧との交流 ―

 このような慧林の姿は、当時の日本人僧侶からも注目されていた。臨済宗妙心寺から派遣され、興福寺の結制に参加していた安芸禅林寺の虚櫺禅師は、妙心寺仙寿院の禿翁禅師に宛てた書状のなかで、隠元に随行して来朝した僧侶について、「隠元伴僧にも、さのみ出格の人之無候、西堂獨應と申人、發名の仁と承候、其次には書記獨知と申人にて是は唐土にても好人の内と申候其外侍者良演を申者作為能く候」と記している。ここでは、隠元に随行した僧侶のなかでも、とりわけ独應と独知(慧林)が評価されていたことが示されている。特に独知については、「唐土にても好人の内」と評されており、中国においても優れた人物として認識されていたことがうかがえる。
 また、慧林と虚櫺との間には、結制中の交友をうかがわせる詩文が残されている。虚櫺が朝廷から紫衣を賜わり、安芸へ帰る際、慧林は「送賜紫虚櫺大�コ回廣島」と題した送別詩を贈っている。この詩では、共に高楼の上、深夜の月を仰ぎながら語り合い、、西郊の山々を山々を眺めつつ詩を詠み交わしたことを思い出として回想している。(話殘高閣二更月 吟過西郊幾片山)これらの表現からは、両者が単に結制をともにした僧侶同士という関係を超え、深く言葉を交わし、詩文を通じて親交を深めていたことがうかがえる。結句では虚櫺が去った後、夕雨とまばらな鐘の音を聞きながら寂しく独り門を閉じる自身の姿を描いている(暮雨疎鐘獨掩關)。ここには、親しく交わった虚櫺との別れを惜しむ慧林の寂寥感が表れている。この送別詩は、慧林が日本の禅僧たちと単に宗教的な場を共有しただけではなく、詩文を介して個人的な交流を深めていたことを示している。こうした交流は、慧林の日本滞在が、黄檗禅の伝来という宗教的活動にとどまらず、日本の禅僧との人的・文化的交流の場ともなっていたことを示している。

   ―富田普門寺 ―


 明暦2年(1656)、妙心寺龍華院の竺印祖門禅師の助けもあって、隠元らとともに龍渓性潜禅師の住持する摂津の普門寺へ移る。龍渓は妙心寺の住持を数度務めた高僧でありながら、隠元に深く師事し、江戸幕府に働きかけて後の黄檗山萬福寺創建に大きく尽力した人物である。
 普門寺において慧林は腹の病にかかった。病に苦しみながらも参禅をやめることはなく、むしろ以前にも増して修行に打ち込んだ。ある時、寝床から降りようとして、薬を煎じる鍋を誤って蹴り倒した。その瞬間、全身から汗が流れ出し、慧林は突然、「趙州の布衫を、今日ついに看破したぞ」(趙州の布衫、今日看破了也。)と叫んだ。長年参究してきた「趙州布衫」の公案が、ここに大きく開けたのである。不思議なことに、それ以来病も快癒した。周囲の人々は単に病気が治ったと思ったが、隠元はこれを慧林が命を懸けて参究した結果としての大悟と見抜き、その力量を高く評価した。慧林は第二座として「西堂」につき、やがて小さな寮に住して修行すること約6年、その歳月をまるで一日のように過ごしたという。朝晩、仲間の僧たちと禅問答を重ね、「拈頌」の著述も行った。文才と禅才の双方を兼ね備えた慧林は、次第に黄檗門下でも傑出した存在となっていった。また、普門寺滞在中に慧林の人生に、もう一人の重要人物が登場する。麻田藩主青木重兼公(端山公)、慧林と生涯を通じて深い法縁を結ぶ人物である。
 明暦4年(1658)、龍渓と端山公らの働きかけにより、隠元は江戸へ赴き、四代将軍徳川家綱公に拝謁する。この隠元の留守中、慧林は普門寺の「監守」を命じられ、僧たちの模範となって率先し、その教化の風を助け支えた。翌年、幕府より黄檗宗の新寺建立の許可が下り、さらにその翌年、宇治大和田の地が寺地として認められる。
 万治4年(1661)、慧林は隠元の名代として寺地を賜った御礼のため登城する。
 同年夏、端山公の請いを受け、摂津国摩耶山の佛日寺住持となる。これが後世、「摩耶山佛日寺慧林機禅師」と称される由縁である。
 慧林が佛日寺へ赴く際、師隠元は払子を授け、法を嗣いだ証とした。さらに偈を贈り、その法灯を大いに振るうことを期待した。慧林は佛日寺に入ると、隠元から受け取った香を取り出して焚き、師への報恩を表したという。以来、慧林は約二十年間、ほとんど佛日寺を離れることなく、師の恩を忘れず、黄檗の法を守り、摂津の地にその法を弘めることに尽くした。

   ― 摩耶山佛日寺 ―

 慧林が住持となった当時の佛日寺は、なお整備途上の寺院であった。慧林は仏殿・僧堂などを次第に整え、寺院としての規矩を定め、修行僧が安心して参禅できる環境を築いていった。その功績によって佛日寺は次第に隆盛し、一地方の寺院という域を超えて、大きな禅林へと発展した。
 寛文4年(1664)秋、慧林56歳の時、領主の招きによって正式な開堂を行う。開堂とは、住持が正式に法を開き、その道場において衆僧へ禅法を示す重要な儀式である。この時期より佛日寺は名実ともに慧林の法を弘める道場となった。
 寛文5年(1665)、慧林は隠元のもとへ赴き法を問う。同年春、黄檗山の住持となった木庵禅師より戒壇を開く役を依頼され、「羯磨」を務めた。役を終えると再び佛日寺へ戻る。
 住持として寺務を行う一方、慧林は自ら経典を書写することを怠らなかった。『華厳経』『法華経』『涅槃経』などの大乗経典を書写し、その数は百巻以上に及んだと伝えられる。また境内に普観堂を建立し、経典や仏像を安置した。

   ― 師と父母への報恩 ―

 延宝元年(1673)、慧林は隠元のもとを訪ねる。久しぶりの再会を隠元は大いに喜び、慧林に偈を贈った。

 重重法脈流無盡 道義恩不可忘

 師から受けた道義と恩を忘れず、仏法の流れを後世へ伝えるよう示したものであった。
 慧林にとって隠元は、単なる師ではなかった。儒学の世界を捨て、仏門に入った自らの志を完成させた「本当の師」であり、生涯を通して敬い続けた存在であった。佛日寺に入ってからも、隠元への報恩を忘れることなく、その法を護持することを自らの使命とした。
 また、亡き父母のための供養も厚く、自らの衣や鉢にかかる費用を節約し、その資金をもって田地を購入し、父母の供養に充てたという。これは慧林が「四恩」の中でも特に父母と師への恩を深く大切にしていたことを示している。

   ― 端山公の引退 ―

 延宝年間に入ると、端山公は病を理由に藩主の座を退いた。かつて一国を治める立場にあった人物が、世俗の栄達を離れ、佛日寺の北麓に旅泊軒、夢住軒、竹岩院を建立する。そして自ら阿弥陀如来と観音菩薩を刻み、落成した開山堂には隠元、慧林、端山三人の寿像を安置した。
 さらに端山は多田庄の山中に方広寺を建立し、ついには自ら剃髪して僧となり、その地に住して仏道を歩むようになる。端山は一人の大名として慧林を佛日寺の初代住持に請い、隠元の法をこの地に弘めることを託した。その慧林と、かつて彼を迎えた大名とが、今度は世俗の身分を離れ、同じ仏道を歩む者として向き合うこととなったのである。この二人の関係は、単なる「施主と住持」という関係ではなかったのだろう。端山は慧林を佛日寺に迎えた後も、その法を敬い、寺の造営を支えた。こうした関係を考えるなら、慧林にとって端山は、佛日寺という生涯の道場を託された恩人であると同時に、晩年には仏道を語り合う同志でもあったと考えられる。
 延宝7年(1679)、慧林は夏に方広寺を訪れ、方丈で端山と語り合っている。さらに9月9日には、端山と高弟の別伝とともに竹岩院へ登り、滝の音を聞いた。かつては藩主と禅僧として相対した二人が、晩年にはただ仏道を歩む者として、山中の静寂の中で滝の音に耳を傾けていたのである。

   ― 大舟寺 ―

 延宝6年(1678)、慧林70歳。高弟の別伝道経は、第三代麻田藩主青木重成公とともに大舟寺を建立し、慧林を開山第一世として請うた。慧林はこれに応じる。大舟寺は山々に囲まれ、人里から遠く、馬も容易には到達できない静かな場所にあった。世俗の喧騒を離れ、坐禅と参究に専念するには、まことにふさわしい道場であった。
 ここで注目されるのは、慧林自身が新たな寺を積極的に建立したというよりも、慧林の法を慕う弟子が道場を開き、師を開山として迎えるようになっていたことである。慧林の法は、もはや佛日寺一山にとどまらず、弟子たちを通じて次の世代へと広がり始めていた。
 そして大舟寺の建立に関わったのが、端山公の後を継いだ重成公であった。端山が慧林を佛日寺へ迎えてから十七年。慧林と端山家との縁は、ここに次の世代へと受け継がれている。
 この年、南源禅師から『耶山集』の序を贈られ、また木庵禅師からは古希を祝う五十七章もの寿章を贈られた。これらは後に『佛日慧林和尚寿章』として刊行される。

   ― 黄檗山第三代住持拝命 ―

 延宝8年(1680)春、慧林は命を受けて黄檗山萬福寺に入り、黄檗宗第三代住持となる。この時、慧林はすでに72歳。身体は老い、病も抱えていたが、師 隠元より伝えられた黄檗の法灯を守るため、その重責を引き受けた。隠元以来、木庵へと受け継がれてきた黄檗の法を、第三代として統率する立場となったのである。
 同年秋には江戸へ赴き、将軍に対して謝意を表した。しかし黄檗山へ戻ると、病は次第に重くなり、薬を服しても癒えることが少なくなった。慧林は自らの命が長くないことを悟る。
 そこで黄檗山方丈の後ろに塔院を建立し、「龍興院」と名付けた。ここを自らの終焉の地、そして遺骨を安置する塔院と定めたのである。

   ― 遷化 ―

 天和元年(1681)10月末頃、慧林の病は急激に悪化する。食事もほとんど取れない日が一か月以上続いたという。それでも全国各地から訪ねてくる僧侶や俗人に対して、慧林は普段と変わらない態度で応対した。法語や偈を書いてほしいと求める者があれば、一人一人に応じた。側近の者が、「もうお断りになってはいかがでしょう」と心配すると、「これから先、こうした機会はもうないだろう。私は人の願いを拒むことができない」(「此の後、得る難し、吾拒に忍びざるなり。」)と答えたという。

 そして、「この老僧には、まだ数日ほど、この世で果たし終えていない縁がある。しばらく待とう」(「老僧尚數日、未だ了せずの縁有り。姑く之を待つ。」)と言った。この「未だ了せずの縁」が何を指すのかは明記されていない。しかし、その後の出来事を考えると、端山公との最後の面会を思わせるものがある。
 11月9日、慧林は湯を用意させて入浴し、髪を剃り、身体を清める。11月10日には弟子たちに衣服や持ち物を整理させた。そして坐禅(吉祥坐)の姿勢をとる。死期が近づくと、側近に身体を支えさせて起き上がり、もう一度最後の遺偈を書いた。その時、遠方の方広寺より端山公が見舞いに駆け付けた。慧林は端山公の顔をしばらく見つめた。佛日寺を築き、ともに黄檗の法を支えてきた者同士。かつて太守と禅僧であった二人は、最後にはともに出家者となり、同じ仏道の上で相まみえた。 そして慧林は、その顔を見届けると、静かに息を引き取った。

 来也錯 去也錯 一隻艸鞋 活如龍 打翻筋斗 錯 錯 錯

 天和元年(1681)11月11日、未の刻。世壽73歳。出家して34年であった。その姿は最後まで端坐し、顔色も生前と変わらず穏やかであったという。

   ― 末後録 ―

 遷化から三日後、遺言に従い北山の麓で火葬が行われた。この日は空が晴れ、風も穏やかで、僧俗合わせて数千人もの人々が葬送に参列した。火葬の後、遺骨を拾い集める。生前、弟子の別伝座元は慧林のために立派な木製の棺を用意していた。しかし慧林は、「この肉体は本当の自分ではなく、幻のようなものである。保存する必要はない。仏教の定めに従って火葬するのがよい」と考えていた。そのため遺体は火葬された。
 すると灰の中から一足の草鞋が現れたという。慧林が最後に残した偈にも「一隻艸鞋」とあり、この出来事は後世に不思議な瑞相として伝えられた。しかし弟子たちは、このような奇異な出来事について多くを語ることを控えたという。12月5日、遺骨は生前に自ら建立した龍興院の塔に納められた。

   ― 法脈と弟子 ―

 慧林が自ら剃髪して弟子とした者には、道香、道森、道水、道意らがいる。また、付法の弟子には、大舟寺の別伝道経、東禅寺の石雲道如、大年寺の香国道蓮、瑞巌寺の黙堂道轟らがおり、さらに指柏軒の晦巌道熙、月渓庵の喝雲道威など多くの弟子へ法が伝えられた。
 俗人の弟子信者にも高龍川、酒井信巌ら、多くの帰依者がいた。慧林の法灯は「龍興派」と称され、その教えは弟子たちを通じて各地へ伝えられた。高弟の別伝経は大舟寺を建立し、慧林を開山第一世として迎えた。慧林の語録も後世にまとめられ、その法語と禅機は今日に伝えられている。

   ― 高泉禅師撰『黄檗第三代慧林和尚機公塔銘 並序』 ―

 慧林禅師の没後、法姪である高泉禅師によってその生涯を顕彰する塔銘が撰された。題して、『黄檗第三代慧林和尚機公塔銘 並序』という。
 高泉は慧林と三十年以上にわたって深い法愛を結び、生前から慧林本人よりその生涯について直接聞いていたという。慧林は生前、高泉に自らの塔銘を作るよう依頼していた。そのため高泉は、「自分の才が足りないことを理由に、どうして断ることができようか」として、謹んでその銘文を撰した。

 以下、その銘文を原文のまま掲げる。

   ― 銘文原文 ―

  �@済北之道 雷揮電起 才捗思惟 白雲萬里

  �A徹過量人 疇能荷此 緊我慧翁 眞白拈子

  �B闖入斯門 洞明底裏 翻轉舌根 弗存義理

  �C佛來祖來 盡情毀 一坐摩耶 足経廾祀

  �D氷檗相持 惟道是履 �p素聆風 孰敢殷歯

  �E山城之阿 有山峩峩 蒼然鬱然 如畳青螺

  �F號曰黄檗 天下禅窟 師承釣命 來董禅那

  �G喝雷棒雨 曷忝沱 牢培岸 力挽頽波

  �H奈縁木末 残照無多 両霜入寂 懌彼羣魔

  �I�V玄魄 斂此素珂 垂終遺命 爲塔婆

  �J兼嘱題銘 以垂不磨 願言來者 莫自蹉

   ― 銘文現代語訳―

 �@済北之道 雷揮電起 才捗思惟 白雲萬里

 慧林が受け継いだ禅の道は、雷が轟き、稲妻が走るように激しく力強い。その禅に触れて少しでも思惟をめぐらせれば、境地は白雲が万里に広がるように、どこまでも広大である。「雷」「電」は、慧林の禅が迷いを一瞬にして打ち破る鋭さを表し、「白雲万里」は、その悟境が広大で、通常の言葉や理屈では捉えきれないことを表す。

  �A徹過量人 疇能荷此 緊我慧翁 眞白拈子

 並外れた力量を持つ人物でなければ、いったい誰がこの深遠な仏法を担うことができようか。その人物こそ我らの慧林和尚である。慧林はまさに「白拈子」。固定した形式や理屈に縛られず、自在に禅機を働かせる真の禅者であった。

 �B闖入斯門 洞明底裏 翻轉舌根 弗存義理

 慧林は禅の門へ大胆に入り込み、その奥底まで徹底して明らかにした。そして舌根を自在に転じ、通常の義理や理屈にとらわれなかった。これは禅を単なる知識として理解したのではなく、自らその本質を体得したことへの称賛である。

 �C佛來祖來 盡情毀 一坐摩耶 足経廾祀

 仏が来ても、祖師が来ても、それに執着せず、徹底して打ち破る。これは仏や祖師を否定するという意味ではなく、「仏」「祖師」という権威や概念にさえ執着しない、自由自在な禅境を讃えたもの。そして慧林は摩耶山に坐し、二十年ほどの長きにわたって禅を弘めた。

 �D氷檗相持 惟道是履 �p素聆風 孰敢殷歯

 慧林が黄檗の法脈を堅く守り、ただひたすら仏道を実践したことを讃える。その徳風と威厳は非常に強く、僧俗を問わず、誰も軽々しく口を差し挟むことができないほどであった。

 �E山城之阿 有山峩峩 蒼然鬱然 如畳青螺

 山城の地には高くそびえる山々がある。木々は青々と茂り、深く静かな山々は、まるで青い巻貝を幾重にも重ねたように連なっている。慧林が生涯を過ごした山寺の静寂と美しい山水を描いた一首である。

 �F號曰黄檗 天下禅窟 師承釣命 來董禅那

 そこは「黄檗」と呼ばれる、天下に名高い禅の道場である。慧林は命を受けて黄檗山へ入り、その禅那、すなわち禅定・坐禅の道場を統率し、正しく導いた。隠元から受け継いだ黄檗の法を第三代住持として守った慧林の功績を讃える。

 �G喝雷棒雨 曷忝沱 牢培岸 力挽頽波

 慧林の「喝」は雷鳴のように激しく、その「棒」は激しい雨のようであった。その力によって仏法の堤防を固く築き、崩れようとする大きな流れを力いっぱい引き戻した。「喝」と「棒」は禅僧が弟子を導くための代表的な手段であり、慧林の激しく力強い指導力を讃えた表現である。「頽波」は崩れようとする大波。衰えようとする仏法を立て直し、黄檗の法灯を守った慧林の功績を表している。

 �H奈縁木末 残照無多 両霜入寂 懌彼羣魔

 木の梢に残る夕日の光がいつまでも続かないように、人の命にも終わりがある。長い歳月を経て、慧林はついに静かに寂に入った。その入寂によって、迷いや煩悩という「群魔」を打ち破ったのである。ここでは「残照」を人の命にたとえ、偉大な禅僧であっても無常を免れることはできないという仏教的な世界観が示されている。

 �I�V玄魄 斂此素珂 垂終遺命 爲塔婆

 慧林の肉体を火葬し、その遺骨を丁寧に集めた。死の直前には遺命を残し、その遺骨を納める塔を建てるよう命じた。これは実際に慧林が龍興院を建立し、遷化後に火葬され、12月5日にその塔へ遺骨が納められたことを踏まえたものである。

 �J兼嘱題銘 以垂不磨 願言來者 莫自蹉

 慧林は、この塔のために銘文を作ることを高泉に託した。その銘によって自らの法と功績が後世に伝わり、決して消えないことを願ったのである。そして最後に後世の者へ向かって、「どうか時間を無駄にしてはならない。修行を怠り、ぐずぐずして人生を過ごしてはならない」と戒める。「蹉ダ」とは、時を空しく過ごすこと、ためらって前へ進まないことをいう。したがって、この最後の一句は慧林の生涯を見た者こそ、その生涯を手本として、自らも仏道を怠らず歩めという、後世への強い呼びかけである。

   ― 慧林禅師という人 ―

 慧林禅師の生涯を振り返ると、そこには学問を修める者、仏道を実践する者、人を導く者、師の恩を守る者、そして最後まで法を惜しまなかった者という、幾つもの姿が重なっている。大陸に生まれ、幼少より儒学を学びながら、世俗的な栄達を求めることなく仏法に心を寄せ、明末の動乱の中で無常を深く感じて出家した。古黄檗山で隠元隆�g禅師に出会い、そのもとで参禅して「趙州布衫」の公案を究め、日本へ渡った後は隠元の法を支え、摩耶山佛日寺を大きな禅林へと発展させ、さらに黄檗山萬福寺第三代住持として黄檗の法灯を担った。その一生は、まさに隠元から受けた法を日本に根付かせ、弟子たちを通じて次の世代へ伝える生涯であった。
 慧林は、裏表のない人物であった。人にへつらうことを好まず、正しいと思ったことは相手が誰であっても率直に語った。その顔貌には威厳があり、普段の姿も厳しく堂々としていたという。性格は非常に気が短く、年を取ってもその性質は変わらなかったため、高泉禅師から「急性王菩薩」と冗談めかして呼ばれたこともあった。しかし、慧林自身もこれを聞いて大いに笑ったという。この逸話からも、単に怒りっぽく厳しいだけではなく、自らを笑いの対象にする大らかさを持っていたことがうかがえる。
 その一方で、慧林は決して粗暴な人物ではなかった。短気で厳格でありながら、私心から人を傷つけることはなく、何事にも裏表がなかった。その率直さと厳しさゆえに、周囲から恐れられることもあったが、それ以上に深く敬愛された。人の願いを拒むことも好まず、晩年、病が重くなってからも、遠方から訪ねてくる僧侶や俗人が法語や偈を求めれば、一人一人に応じた。これは、厳しい禅師としての姿の奥に、人に対する温かさと慈悲を持っていたことを示している。
 慧林はまた、文筆と学問に優れていた。儒学を修めた教養を仏法のために生かし、寺院では「記室」として文書を司り、数多くの法語や著述を残した。『華厳経』『法華経』『涅槃経』などの大乗経典を自ら書写し、その数は百巻以上に及んだと伝えられる。しかし、学問や文筆だけに秀でた学僧ではなかった。役職についてからも作務を厭わず、他の僧たちとともに草鞋を履いて働き、肩に荷を担い、少しも労苦を嫌わなかった。文才と禅才、学問と実践、その両方を備えていたところに慧林という人物の大きな特徴がある。
 生活も質素であった。古びた衣を着続け、笠が破れても簡単には捨てず、身の回りのことに無駄な財を使わなかった。自らの衣や鉢にかかる費用さえ節約し、その資金を父母の供養のために充てたという。師 隠元への報恩もまた厚く、佛日寺に入ってからも師から受けた恩を忘れず、隠元の法を護持し、黄檗の法灯を日本に弘めることを自らの使命とした。父母への孝、師への敬、弟子への慈しみは、慧林の生涯を貫く大きな柱であった。
 高泉禅師が撰した『黄檗第三代慧林和尚機公塔銘 並序』には、こうした慧林の人物像が、さらに禅者としての姿を通して描かれている。「雷」「電」「喝」「棒」といった激しい言葉が繰り返される一方、「白雲万里」「青螺」「残照」といった静かな自然の言葉も用いられている。そこには、慧林の禅そのものが表現されている。迷いに対しては雷鳴のように激しく、固定観念に対しては棒のように鋭い。しかし、その激しさの先にあるものは、白雲万里のように広大で、山中の青螺のように静かな境地であった。
 激しい禅風と質素な生き方、そして情の深さを備えていたところに、慧林禅師という人の大きな特徴がある。

   ― 慧林禅師の著作 ―

 ・佛日慧林禅師語録一巻

 ・慧林禪師語録六巻

 ・佛日慧林和尚七十壽章

 ・黄檗堂頭大和尚末期日録

 ・佛日慧林和尚耶山集

 ・滄浪聲

 ・麻耶山寺志