佛日寺は東畑村字我孫子(池田市畑1丁目)の地にあり、黄檗宗大本山万福寺の末寺で、釈迦如来を本尊とする。像は明国范道生の作で大本山万福寺の本尊と同作である。本寺は摂津国麻田藩主の菩提寺で、同藩主2代青木甲斐守重兼公(端山と号す)が開基である。
『端山紀年録』によると、寛永7年(1630年)同国麻田村東方天王山山麓に、本寺を建立し松隣寺と号したが、その地が諸条件にかなわないため承応3年(1654年)現在の我孫子の地に移し、仏殿・禅堂・方丈・山門・鐘楼等を建立した。その後、万治2年(1659年)黄檗宗祖隠元禅師の来朝を機として、富田村の普門寺より同禅師を招来、本寺を開山し、摩耶山佛日寺と命名した。寛文元年(1661年)重兼公(端山)55歳の時、法嗣慧林禅師(黄檗山3代住持)を佛日寺初代の住持とし、寺領二百石を喜捨して麻田藩主の菩提所とした。当時境内2町6反3畝23歩を有し、本堂の他に29宇を存する大伽藍の巨刹であった。そのうえに、高泉性敦禅師(黄檗山5代住持)、慧極道明禅師(法雲寺開山・萩の東光寺住持)等の名僧が相い尋ねて住持となり寺門隆昌を極め北摂の一大禅刹となった。
しかし、明治維新の政変で廃藩と藩籍領地の奉還により寺禄が絶えて、明治5年(1872年)境内地は減じ堂宇の大部分が縮少した。さらに、同29年(1896年)暴風豪雨の変にあい堂塔伽藍は倒壊し壊滅状態になったが、同32年(1899年)願済のうえ再興した。
戦時中、食糧増産のために、貸与した寺領も昭和21年(1946年)農地改革により寺領のすべてを失い窮地にたたされたが、同43年(1968年)明治百年を記念して、小規模ながら多目的近代禅院を復興する。平成7年1月17日震災により山門が倒壊し、翌年再建する。
本堂には正面の仏壇高く釈迦如来の座像を本尊に向かって左に毘沙門天、同じく右に緊那羅王(令和2年に判明)のそれぞれ立像を脇侍として安んじている。さらに、本尊に向かって右に達磨大師、同じく左に隠元禅師を祀っている。また、開山堂には向かって左側から、青木一重公、慧林禅師、青木重兼(端山)公の順序で木像を奉安している。
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