●ご本山(黄檗山)の国宝

94.令和7年8月2日(土) 施餓鬼会の一席
 演題「ご本山(黄檗山)の国宝」 住職(服部潤承)


 佛日寺のお施餓鬼にお参りくださいました皆さん。今日は。平素は何かとお世話になり、厚く御礼申し上げます。
 今年は梅雨明けが早く、猛暑日が続いておりますがお変わりございませんでしょうか。非常に暑い中をお参り頂きまして有難うございます。皆様のご先祖を始めとする亡き方もこのようにお施餓鬼に参加され、喜んでいらっしゃることと存じます。色々な孝行があります。「親孝行 したいときには 親はなし」しかし思い立ったが吉日で、仏事や神事に参加されるのも孝行の一つのように存じます。
 春の彼岸に申しおりましたご本山の重要文化財が国宝に認定されたニュースについて、詳しくお知らせ致します。
 国宝は国が指定した有形文化財のうち、特に価値の高い建造物や美術工芸品などを指します。2025年1月現在1,144件、国宝「世界文化の見地から価値が高いもので類いない国民の宝たるもの」として規定されています。有名な国宝は、東大寺の大仏・姫路城などです。 本山級の禅宗寺院では、円覚寺舎利殿 大徳寺唐門、方丈、玄関、大仙院本堂 東福寺三門、竜吟庵 南禅寺方丈 そして、萬福寺大雄宝殿、法堂、天王殿などです。
 ご本山の国宝3棟について、ご紹介いたします。
 法堂(はっとう)は寛文2年(1662年)隠元禅師晋山2年目に竣工しました。入母屋造り、こけら葺きで、中央に須弥壇だけがあり、説法をする道場として尊像は有りません。「主人公」、「本尊は一人ひとりに在り」を暗示しています。内に隠元禅師唯一の楷書の扁額『法堂』は、威光を放っています。外に隠元禅師の師匠費隠禅師の書『獅子吼(ししく)』は、お釈迦さまが霊鷲山で獅子が吼えるがごとく説法をした由来によるものです。威風堂々としたお釈迦さまの姿が想像できます。瓦敷きの廊下に沿って勾欄が巡らせてあります卍・卍崩しの文様は奈良時代の法隆寺にみられますが、江戸時代ここに再び登場します。
 法堂は、3代将軍徳川家光公・4代将軍徳川家綱公の老中・大老(幕閣の最高職)でありました酒井忠勝公の寄進によるものです。この酒井忠勝公は、麻田藩主と深い関係があります。 3代麻田藩主青木重正(しげまさ)公は、旧姓朝倉重正と称し、父上朝倉宣親・母上長松院【酒井忠勝の子女】で2代麻田藩主青木重兼公の子女の婿養子に入られ、幕府との太いパイプもでき、権勢を振るわれたそうであります。
 大雄宝殿(だいおうほうでん)は寛文8年(1668年)に黄檗山萬福寺の本堂として山内最大の伽藍が竣工しました。歇山重檐式(けつさんじゅうえんしき)の建築様式で外観は二層の屋根になっておりますが、内部に入りますと一階の平屋建てです。宮廷の建築様式で日本では唯一最大のチーク材(高級家具材)を使用した歴史的建造物であります。
 ご本尊は、禅宗の本山ですので、正面が釈迦牟尼仏(作京仏師兵部)。両脇侍に右側、第2祖お釈迦さまの死後、第1結集(経典の編集)し清貧の修行に努めた頭陀第1の摩訶迦葉尊者(福島信士の作)(まかかしょうそんじゃ)、左側、お釈迦さまの従弟(いとこ)で25年間、傍に就き、教えを見聞記憶した多聞第1の阿難尊者(福島信士作)(あなんそんじゃ)を奉安、実在人物です。両単に18羅漢が鎮座、通常16羅漢ですが、慶友尊者(けいゆうそんじゃ)と 撫で仏で知られている賓頭盧尊者(びんづるそんじゃ)が加えられています。
 18羅漢の中に、お釈迦さまの子息(お釈迦さまが27歳の時に耶輸陀羅(やゆだら)との間に誕生した) 密行第1の厳しい修行を重ねられた羅ご羅尊者(らごらそんじゃ)が胸襟を開き、自分に内在する仏を開示している尊像が目に入ります。『唯心の浄土、己身の弥陀』全てのものは心によって生じ、浄土もまた自身の心の中に存在する。阿弥陀仏もまた自身の心の中に在ると、表現しています。
 左右に円窓が設えてあります。日月(昼夜)の光明が注がれ、尊像がうっすらと光輝きます。 中央入口に内から外に開く開き戸が有ります。「桃戸」と言います。魔除けの桃の実が彫刻されています。正面の軒を見上げると、蛇腹天上アーチ状の曲線が描かれ、龍のお腹にいるかのような錯覚に陥ります。このような軒を檐廊(えんろう)と呼びます。
 中央高く上層部に掲げているのが隠元禅師による「大雄宝殿」(お釈迦さまを祀る仏殿)、下層部には木庵禅師による「萬徳尊」(多くの尊い徳を備えているお釈迦さま)、内部中央に明治天皇の御宸筆による「真空」(お悟りの究極の境地で、隠元禅師の大師号)が掲げられています。中央から外を眺めると舞台のようなステージが広がります。「月台」(げつたい)と言い昼は太陽の光を、夜は月の光を反射させ内部を照らします。月台はプラットホーム。到着・出発を表わしています。月台の真ん中に「罰跪香頂石」(ばっきこうちょうせき)があり、懺悔(さんげ)のひと時を持ちます。
 寛文7年(1667年)、隠元禅師76歳、5月25日、隠元禅師は2代麻田藩主青木重兼公に書簡を送ります。「老僧 此の山を開闢して今に迄(およ)んで七載 未だ大観を獲(え)ず」とあります。そして、2代麻田藩主青木重兼公は幕府より造営奉行(作事奉行・建立奉行)を拝命し、寛文8年(1668年)3月25日上棟、12月8日建築工事を終了し祝会が啓(ひら)かれます。
 天王殿は寛文8年(1668年)、玄関として設えています。范道生作の布袋尊(実在人物で梁の禅僧契此<けいし>と言い、弥勒菩薩<56億7千万年後出現する未来佛の化身>・京都七福神)が参詣者を出迎えます。
 背中合わせに、韋駄天尊が大雄宝殿のお釈迦さまを見守っています。2代目で、清で造立したものです。韋駄天はインドの足の速い古代神で、「韋駄天走り」「ご馳走(持ち前の速い足で食物をあつめる)」など、韋駄天尊にまつわる言葉が生まれます。天王殿の名前の由来となっている「四天王立像」は、東を守る「持国天」、南を守る「増長天」、西を守る「広目天」北を守る「多聞天」の四天王を祀るので天王殿と言います。
 寛文8年(1668年)に竣工した青木重兼公造営奉行とし手がけたものは、国宝「大雄宝殿」と「天王殿」ほかに重要文化財「斎堂」と「鐘楼」です。
 「法堂」にしろ「大雄宝殿」・「天王殿」は麻田藩主のお働きがあったからこそ、国宝の栄に浴することできました。 



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