●清流に間断無し
88.令和5年8月5日(土) 施餓鬼会の一席
演題「清流に間断無し」 住職(服部潤承)
今日は。<合掌>8月に入り、関西もお盆の季節になりました。今年のお盆行事の一つ「お施餓鬼」を5月8日以降の新型コロナウイルスが5類に引き下げられインフルエンザ並みの扱いになりましたので、今回から元に戻しての開催となりました。多少手狭でございますので、換気はしておりますが、用心のためマスク着用をお願い致しております。あまり政府は新型コロナウイルスの感染者数をはっきりと発表しませんが、感染者は相変わらず多いとのことです。消毒とマスク着用は引き続きされますことをお勧めいたします。それにいたしましても暑いです。温暖化は間違いなく進行しております。私の小さい頃は30度を超えることは珍しいことでした。木陰に行くと、涼しく優しい風が頬を撫ぜるように吹いてまいりました。私達はそのような自然の優しさの中で育てられてきたと思います。梅雨明けはいたしましたものの、線状降水帯による集中豪雨が全国中に被害を齎しました。かつては梅雨と言えば、「しとしと」と降る長雨のことでありました。長雨と眺めを懸けて、「物思いに耽る」いい季節として、梅雨を楽しんだものです。1年に一二度大雨警報が発令され学校が休みになり、普段と違う様子に好奇心をもって見ました。わざわざ外に出て普段の様子と違う景色を「うきうきワクワク」して見ていました。非日常と言うのは、このようなことを指すものと思いますが、今日の集中豪雨は、「ハラハラドキドキ」して、精神衛生上、大変良くありません。本来、雨は風流なものとして、日本の美意識の一つに数えられていましたが、何時の間にか、嫌われ者のようになってしまいました。
そこで、雨だけでなく水について考えてみたいと思います。暦の上ではもう秋ですが夏真っ盛りの暑さです。水が恋しく一滴たりとも無駄にはできません。この体内に占める割合の最も高いのが水であります。水こそが命の根源であります。末期の水・お施餓鬼の洒水・仏壇やお墓の閼伽水、私たちの生命を維持するために切っても切れない大切なものが水であります。
また水から色々な教訓を学んでいます。戦国時代の豊臣秀吉に仕えていた黒田官兵衛は、「水五訓」としょうして次のように教えています。
@自ら活動して他を動かしむるは水なり<自らが動くことで周りのものを動かす>
A常に己の進路を求めて止まざるは水なり<どのような環境の中でもその流れを止めることなく動いている>
B障がいにあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり<苦しい時もじっと耐えて努力を続けると、大きな力となってかえってくる>
C自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり<排除せず一つにまとめ、大きな目的に向かって集約していく度量を持つ>
D洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰と化し凝しては玲瓏たる鏡となりたるも其の性を失はざるは水なり<次々と自らの形を変えるが、その本質は一切変化することがない>とあります。禅語で茶人の間で親しまれている「清流に間断無し」(『嘉泰普灯録』)があります。 湖・沼・池・河川の水は干上がりますと、絶えてしまいます。ところが地下を流れる清らかで混じり気の無い水は、いくら地上で日照りが続き、雨が降らなくとも滾々と湧き出ています。冷たく一年中、水温は一定に保たれています。砂漠地帯では、オアシスとなり、草原地帯では、泉となって潤いを齎し生命の根源となっています。
今も昔も変わりなく、絶え間なく続いているところに清流の意味があります。富士山に降った雨や雪が地中深く浸透し、長時間を経て伏流水となって湧き上がって来る清流を絶えることのない永遠の命と見ることが出来ます。
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