●盂蘭盆にちなんで 〜母の思い〜
73.令和元年8月3日(土) 施餓鬼会の一席
演題「盂蘭盆にちなんで 〜母の思い〜」 住職(服部潤承)
今年も無事に盂蘭盆大施餓鬼を勤めることができました。夏の仏事と言えば、お盆であります。その代表的なものが大施餓鬼でありますし、塔頭(たっちゅう・たっちょ)参り・迎え火・棚経参り・送り火・地蔵盆等がお盆行事であります。
塔頭参りとは、お墓参りのことです。墓掃除を念入りにいたします。年に一度のお里帰りを墓掃除のついでに、12日又は13日の夕刻には迎え火を焚いて一家揃って亡き方の帰りを待っていますことを伝えます。迎え火の夕刻、庭先やテラスでオガラを焚いて、亡き方に帰るところの案内をいたします。仏壇の前や横に簡易な供え棚を作り、亡き方の居場所を作り、生前お好きなものを供えます。一家揃ってお供え物を頂くのも良いことです。一家揃って仏典を唱えるのも良いことです。三日目になりますと、送り火です。以前は、お供え物をお土産に河原で蝋燭やオガラに火をつけて亡き方を送り出したものですが、役所の指導により川に流すことができなくなりました。でき得る限り皆で召し上がられることを勧めます。因みに、夏の風物の花火大会は、迎え火・送り火の仏事によるものが起源でした。
地藏盆は、語呂合わせの「地藏」は「児童」で、子供のお盆行事として定着しています。子供達は、夏休みも終わりに近づきますと、夏休みの宿題に追われて、お地藏様巡りをいたします。お地藏様に参ったご褒美に地域の役員の方や長老方からお菓子を頂きます。クリスマスと地藏盆は子供が楽しみにしている行事と言っても間違いありません。
そもそも盂蘭盆とは、何でしょう。盂蘭盆が縮まって「盆」と言われるようになりました。サンスクリット語で「ウランバナ」逆さ吊りの苦しみ、イラン語で「ウルヴァン」死者の霊魂と言う意味であります。
インド古来、「子孫から供養されていない霊魂は、六道の世界に堕ち、逆さ吊りの苦しみを強いられている。その霊魂に飲食を供養し、逆さ吊りの苦しみの世界から救う風習」がありました。「盂蘭盆経」には、お釈迦様の十大弟子の一人である目連尊者が餓鬼道に堕ちた母の苦しみを救おうとして、お釈迦様の教えに従って三宝に供養し、母を救った話があります。
目連尊者は神通第一、生前、目連尊者を大切に育ててくれた母を餓鬼の世界で見つけました。
餓鬼の世界は、1、生前、欲深かった者が死後に行くところ。
2、亡者は飲食もできず、飢えと渇きに苦しむところ。
3、助けたい一心で飲み物や食べ物を供養しょうとするが燃え上がり、飲むことも食べることもできないところ。
4、ガリガリに痩せて逆さ吊りの苦しみを強いられるところだそうです。
母親は、わが子(目連尊者)を一生懸命に慈しみ育てました。目連尊者は裕福な家庭の一人っ子、父母の熱愛を受けて成長いたしました。母親は、わが子可愛さのあまり、「自分の子供にだけは---」と言う料簡の狭い、歪んだ見方・考え方になって『慳貪<けんどん>の罪』を犯してしまい、母親は餓鬼道に堕ちてしまったのであります。
目連尊者の母親の『慳貪』とは、或る暑い夏の日、軒先に立って、一杯の水を乞う老人に、母親は一杯の水を施しませんでした。家の水甕には、水が満たされていましたが、それは幼い息子に飲ませるために汲んでおいた大切な水でありました。母親は息子への愛情は深かったものの、見知らぬ老人の渇きを思いやる慈悲を持ち合わせず、一杯の水を出し惜しみしました。
お釈迦さまは、目連尊者にアドバイスします。
「7月15日は、90日間の安居が終わり、たくさんの僧が一堂に会し、過去の罪を懺悔する、修行の最終日「自恣の日」です。この日に施食供養をしなさい。たくさんの供養によって、母はもちろん、父も、 過去にさかのぼって7世の父母や親族も罪を逃れ苦しみから救われるでしょう。」
愛と慈悲には違いがあります。愛は、特定の誰かを幸せにしたいと思う料簡の狭い心。「ご主人だけ」・「奥さんだけ」「阿難尊者だけ」。アガペー(無償の愛)、神様が全人類を愛するような広いものではありません。慈悲は、不特定多数の幸せを願う心。老人を始めとする生きとし生きるものを対象とします。龍樹の「智度論」で釈尊の心に「四無量心」
慈:楽を与える
悲:苦を抜く
喜:抜苦与楽を見て喜ぶ
捨:思い上がりを捨てる
があったと言います。慈悲には、このような深い意味があります。阿難尊者のお母さんには、残念ながら慈悲が欠けていたのでありましょう。
ところで、東北の大船戸高校の野球部佐々木投手が注目を浴びていました。監督は、決勝戦で佐々木投手を起用しなかったのであります。将来の有る選手を故障させないためであります。チームの優勝を優先するのか、投手の健康を優先するのか。監督は選択に苦しんだことでしょう。監督は避難されることを覚悟して、投手の将来を選択したのでありましょう。高校野球はあくまでも教科外クラブ活動ですから、プロスポーツとは一線を画す必要があります。高校野球のすばらしさは、アマチュアスポーツですので、勝ち負けはど返しで、プロの評論家が監督の采配をとやかく言うことはないと思います。まさしく目連尊者のお母さんのようにならないように心がけなければなりません。
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