7.平成14年9月23日(月) 秋季彼岸会の一席 演題「喫茶去」 住職(服部潤承) | |
あれだけ暑かった夏も、お彼岸になりますと、時のうつろいと申しましょうか、すっかり秋らしく涼しくなってまいりました。
この17日、小泉首相が早朝より、懸案の諸問題解決に訪朝されました。
残念なことに、日本人拉致問題は、11人中、8名が亡くなっていたとのことであります。
関係者はもちろん、日本中が悲しみの中にあります。
極端な政治思想は、こんなことまで平気でできるのかとおもいますと、背筋が寒くなります。
この国に、「宗教はアヘン」と批判する資格はありません。「○○主義はアヘン」と、そっくりそのまま、お返ししたいものであります。
去年の3月、アフガニスタンの北・バーミアンの石仏が、アルカイダ・イスラム原理主義者によって爆破されました。
アルカイダは早くから爆破予告をしていましたから、世界中の人々が、貴重な文化遺産を守ろうと悲鳴に似た声をあげていましたが、
その声もアルカイダには届かず、予告通りバーミアンの石仏は、粉々になってしまいました。
世界中の心ある人、とりわけ仏教徒は悲嘆にくれましたが、報復いたしませんでした。
お釈迦さまは、法句経で、次のようにおっしゃっています。
「怨みは怨みをもっては、終には休息ことを得べからず、忍を行ずれば、怨みを休息ことを得、此を如来の法と名づく。」と。
この間、日本画家の平山郁夫画伯が、バーミアンに行かれ、石仏の悲惨な状態を目のあたりにされました。
バーミアンの石仏修復が、世界中で声があがっているさ中、平山郁夫画伯は、「このままでよいのではないか」とおっしゃいました。
この世は無常、形あるものは、いずれは壊れ落ちてしまいます。
そのままが、自然の姿・仏様の姿と悟られたのでありましょう。
私も、今、修復して、これみよがしに、イスラムの人達の気持ちを逆撫ですることもないのではないかと思います。
今こそ、仏教徒の慈愛に満ちた智慧で対処しなければならないと思います。
前置きが長くなりましたが、本日の演題は「喫茶去」でございます。
平成5年5月3日、開山忌にあわせて、佛日寺17代住職として晋山式をいたしました。
その時に、ご本山の山内・塔頭龍興院のご住職から、第58代黄檗山萬福寺住持・奥田行朗猊下の染筆の掛軸を頂載いたしました。
現在、佛日寺の方丈・書院の間に掛けております「喫茶去」の掛軸でございます。
「喫茶去」と言う禅語は、よく目にするものですが、語録を繙きますと、一つに。
碧巖録の第95則に、長慶聾人が、「作麼生か是れ如来の語」と尋ねると、保福衲子(雲水)が、
「喫茶去」と答えたと言う逸話があります。
もう1つ、 趙州禅師語録の中に、趙州禅師が修行僧に、「曾て此間に到るや」と尋ね、
修行僧が「曾て到らず」と答えると、趙州禅師が「喫茶去」と勧めた。
また、趙州禅師が修行僧に、「曾て此間に到るや」と尋ね、修行僧が「曾て到る」と答えると、
趙州禅師が「喫茶去」と勧めたと言う逸話があります。
今回は、趙州禅師の「喫茶去」について、お話致します。
趙州禅師は、唐末期の禅僧で、人に会う毎に、「喫茶去」と言っていました。
「喫茶去」の去は、置き字と言いまして、語調を整えるだけで、意味を持ちません。
したがって上の二文字の「喫茶」つまり、「茶を喫する」、訳しますと「お茶でも一杯」と言う意味であります。
趙州禅師は、誰にでも用件をさしおいて、「まあ、お茶でも一杯」と勧めたそうです。
大阪は商いの都市です。人と顔を合わす度に、「もうかりまっか」・「ぼちぼちでんな」の会話が聞かれます。
ごくありふれた挨拶ですが、この挨拶が大切なのであります。
挨拶という語は禅語の1つであります。相手の心の中に切り込んで行き、相手の度量を斟酌すると言う意味であります。
それがいつの間にか、エチケットとマナーとして落ち着いたようです。
しかし、大阪の商いを生業としている人々は、「もうかりまっか」・「ぼちぼちでんな」の会話の中で、
相手の心を推し量っているといわれます。これは、まさしく禅で言う挨拶なのであります。
話題を元に戻しまして、趙州禅師が、用件はさておき、会う人会う人に、
「お茶でも一杯」と勧めたこの一言を、どう受け止めるかで、聞く側の度量の程がわかってまいります。
一、「会話をはぐらかしている」と思う人
二、「もっと真面目に会話せよ」と思う人。
三、「何が言いたいのか、考えてみよう」と思う人。
四、「なんのこっちゃ、わからん」と思う人。
五、「素直にお茶を飲めばよい」と思う人。
受け止める側の心の状態で、受け止め方も随分違ってまいります。
丁度、お彼岸でもありますので、お彼岸の心であります智慧で、
受け止めますと、お茶を戴く時には、ただただお茶をおいしく戴くだけ、
それに徹し切ることに努めよと言う事になろうかと思います。
また、趙州禅師が、相手見境なしに、お茶を勧めたのは、無分別智の徳行と言えるのではないでしょうか。
身分、男女の分別を超越したところが尊いのであります。
かつて、利休居士は茶室のにじり口を、人一人がやっと通れるぐらいの狭く小さなものとしました。
何も持たないで、身一つで茶室に入るのが、約則であります。
女性でしたら、装飾品を、大名でしたら大刀を、僧侶でしたら大袈裟等であります。
それらをつけていましたら、狭いにじり口は、通りにくくなっております。
これは、身分・男女の分別を越えて、普くお茶を喫する「普茶」の精神なのであります。
では、皆様一堂に会して、茶礼をいたしましょう。
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