●心遠ければ地自ずと偏なり

63.平成28年9月22日(木) 秋季彼岸会の一席
 演題「心遠ければ地自ずと偏なり」 住職(服部潤承)


 9月の半ばもすぎますと涼しくなってまいりました。また月も一段と美しく見えるようになりました。何故でしょうか。空気が澄んでいるからであります。空気が澄むと月が美しくなります。環境が良くなると地域一体が美しくなります。心が清くなりますと人が美しくなります。
 スタイルが良いとか。美人とか。恰好いいとか。イケメンとかと云う意味ではありません。傍にいて、安心ができるとか。落ち着くとか。気を遣うことがないとか。神経を磨り減らすことがないとか。ストレスを感じないとか。正しくこの世ににあってお浄土にいます心境を言うのでありますが、しかし、なかなか実現できないのが現実で、この世を娑婆世界と言われる由縁であります。
 しかし、この現実世界が濁世(じょくせ・穢れた世界)でありましても、またこの身を俗世間に置いていましても、お浄土を創ることができるものであります。禅語に「即心是仏(そくしんぜぶつ)」というのがあります。心の本体は仏さまと異なるものでなく、この心がけそのままが仏さまであると云う意味であります。
 今日、ご本山のある宇治市に車で行ったり来たりしておりますと、渋滞の中に合流する度に感じることがあります。いくら指示器を出しても、窓を開けて手で合図をしても、「入れてやるものか」と言わんばかりに、前の車につけている車があります。また一方、指示器を出すと、気持ちよく譲って合流させてくださる車もあります。その時、道を譲って戴いたお礼に、手を挙げたり、ハザードランプを点けたりしております。
 合流しなければならない時に、合図もなく無理やり「邪魔だ」と言わんばかりに割り込んでくる車。道を譲ってもらったのにも拘わらず、当たり前のように知らぬ顔をして行ってしまう車。「ありがとう」と云う「感謝」の気持ちを失ってしまったのでありましょうか。車社会の中にも地獄・極楽の心が存在するように思います。「お先にどうぞ」と云う「譲り合い」の心と「ありがとう」と云う「感謝」の気持ちがあれば、交通事故も減少するものと思います。
 そこで、本日のテーマに入ります。『心遠ければ、地自ずと偏なり』心が俗世間から離れていると、例え俗世間にあってもそこは自然と清らかなところとなるものである。「菊を採る東りの下」東の垣根に生えている菊の花を摘み採り、「悠然として南山を見る」のんびりと雄大な南山を眺め、俗世間にあっても心が調えられ、心静かに生きることができる。との意味であります。
 この漢詩は、陶淵明の『飲酒』の一部で、42歳の作であります。
 実際は、喧騒の町の中に住んでいるのに、のんびりした心豊かな気持ちを保っていると、まるで人里離れた奥地に暮らしているような境地になるものである。正しく心の持ちよう次第なのであります。この心の処し方が分かるまでには時間を要します。病気になったり、退職や転職を余儀なくされたり、身内の方に不幸があったりして失意を経験され、その失意を乗り越えられた方の究極の境地ではないかと存じます。歌謡曲ではありませんが、「人生いろいろ」隣のバラは赤く見えると申しますが、いい時ばかりではありません。その逆もあります。心の処し方が人生を豊かにするものと存じます。



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