60.平成28年3月20日(日) 春季彼岸会の一席
演題「南泉斬猫」 住職(服部潤承) | |
ご本山に登って、早1年2ケ月が経ちました。後3年と10か月となりました。早いものです。留守中は檀家の皆さんに大変多くのご迷惑をおかけしております。後暫く、ご辛抱をいただきたく存じます。留守とは言え、弟子の二人が一生懸命代わる代わる住職の代わりをしてくれておりますので、安心して本山の執事を務められますし、檀家総代の皆さんをはじめ檀家の皆さんが温かい心で見守っていただいているのが、何よりの励みでございます。
この本堂の正面ガラス戸・障子が新しくなりました。佛日寺会館の庭園に垣が作られました。麻田藩の400年記念として麻田藩主の墓苑入口に大きな枝垂れ桜が植えられました。この場をお借りしまして御礼を申し上げます。住職の留守中にも関わらず、お寺が隆盛していく様子を見ると大変嬉しく存じる次第です。
丁度この間、3月10日、京都の東福寺で臨済義玄禅師1150回忌と白隠禅師250回忌の大法要が行われました。萬福寺からも管長猊下・宗務総長についてまいりました。当日は寒の戻りで寒風が容赦なく吹き付ける日でありました。大きな法堂に臨済宗の各本山の役職が一堂に会しました。導師は南禅寺の管長、中村文峰老師が務められ、1時間30 分厳粛に営まれました。多くのテレビ・新聞のマスコミ各社から取材に来ていましたので、ニュースで全国に報道されたようであります。
臨済義玄禅師と言えば、お釈迦様からすると39代目、達磨大師からすると11代目の方で、隠元禅師から遡ること31代目の臨済宗を開かれた禅僧であります。隠元禅師は臨済正宗32世とありますから、臨済宗の正統の法嗣者・法を嗣いだ方と言えます。江戸時代には臨済義玄禅師の再来とも言われ、朝廷や幕府から沢山の信奉者が出たそうであります。
白隠禅師は、日本の臨済僧で、日本臨済宗の再興の祖と言われています。佛日寺の世代に慧極道明禅師がいらっしゃいますが、昵懇の仲で次のようなやり取りが記録に残っています。
「学人はほぼ見通し宗旨は得たと思っておりますが、日常生活の上では坐禅のときの心境と矛盾し、まだほんとうに大安穏、大解脱の境地には到っておりません。どうか示諭を垂れたまえ。」と白隠禅師は尋ねられます。
「そういうことならば、山中に入って、草木とともに朽ち死ぬ覚悟で接心するがよいだろう。」と慧極禅師は答えました。
さて、本日の法話のテーマに入ります。無門関第14則『南泉斬猫』です。
南泉和尚、因みに東西の両堂が猫児を争う、泉、乃ち提起して云く、
「大衆、道い得ば即ち救わん、道い得ずんば即ち斬却せん。」
衆、対ふる無し。泉、遂に之を斬る。晩に趙州外より帰る。
衆、州に挙示す。
州乃ち履を脱いて゛頭上に安じて出ず。泉云く
「予、若し在らば、即ち猫児を救い得ん」
凡その訳は、或る時、東堂と西堂の修行僧が一匹の猫について、論争していた。南泉和尚は、猫の首根っこを持つて言った。
「修行僧たちよ。禅の一語で真理を言い当てるならば、この猫を助けよう。言い当てなければ、斬り捨てよう。」
誰一人として、一語で答える者が無かった。南泉和尚はついに猫を斬ってしまった。
夕方、趙州禅士が外出先から帰ってきた。
南泉和尚は、趙州士に猫を斬り捨てた一件を話しました。
すると、趙州士は履を脱いで、それを自分の頭の上に載せて出て行ってしまった。南泉和尚が言った。
「もし、お前があの時にいたならば、猫は救えた」
これは、中国唐の末期、趙州士が南泉和尚の下で修行していた頃の話です。どのような論争をしていたのかは、定かではありませんが、猫に仏性があるのか、ないのかのような論争かと容易に想像できます。
仏性とは、仏様になる要素とでも言っておきましょう。お釈迦様は、一切衆生悉有仏性と仰って、この世にある生きとし生けるものは皆仏様や仏様になる要素があると断言しています。すると、「有る」と答えると及第点ではありますが、禅の世界では、「有る」とか「無い」とか、分別することは、二元対立の思考と考えます。
この二元対立の思考を超越した「有」とか「無」とかの答えが要求されるのであります。ただ「有る」とか「無い」とかで答えると、猫に、仏性が「有る・無し」と言うことになってしまうので、答えに窮して何も答えられなかったものと思います。猫にとって大変迷惑なことになってしまったわけです。
夕方、出先から帰ってきた趙州士に、成り行きを話しました。すると、趙州士は履いていた履を脱いで頭の上に載せ、出て行ってしまったのであります。一見、非常識な行動と受け止められますが、一瞬にして分別なき行動に移されたと言うところであります。
電車のプラットホームから老人が落ちました。今まさに電車が来ようとしています。その瞬間、危険を顧みず、自分が列車事故に遭うかもしれないのに、老人を救おうとして線路内に飛びこんで行くような行動、非常識極まりない危険な行動、一般に言われる分別のなさと言われるものですが、心の働かない行動・無心の行動・無分別智の行動と言われるものであります。
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