57.平成27年8月1日(土) 施餓鬼会の一席
演題「洞山三頓」 住職(服部潤承) | |
皆さん、久しぶりでございます。今日のお盆のお施餓鬼は如何でしたか。長い法要は結構とは言うものの、長すぎてもう結構と言いたい方も少なからずありましょう。餓鬼の世界はどのような所かはわかりませんが大変苦しいところに違いありません。
1月12日より本山に出仕して、早、7か月が経とうとしております。髪は剃って、ありませんが、後ろ髪がひかれるような思いで本山に参り、週に一度はこちらに帰っております。暫く帰らぬうちに草は茫々と茂っているのではないだろうか、掃き掃除は怠っていないだろうかとか、あれやこれや心配して帰りますと、予想と違って綺麗に保たれているではありませんか。弟子や寺族が住職の留守をしっかり預かっていることに気付いたのであります。内心安堵と感謝の気持ちで一杯になりました。とは、言うもののまだまだ社会勉強ができておりませんので、住職の交代は先の話でございます。社会での勉強こそが本当の修行であります。
「極楽百年の修行は、穢土一日の功に及ばず」とか「穢土の一日修行、深山の千日修行に勝る」とか申します。社会に出て荒波に揉まれてこそ、厳しい修行をしたと言えましょう。緩い修行を長くしたとしても、世間の厳しさには到底及びません。世間の修行から多くのことを学び、今生きることにどのように役立てるのか、体験智を増やして本当の智慧を磨く必要があります。
今を生きることに役立たない知識などいくら身に着けても、役に立たないばかりか、人生の指針さえ狂わせてしまうように思います。以前、このようなことはなかったのに、多くの方々が今これで苦しんでいるのであります。高学歴・未婚・少子化・核家族・独居老人・認知症など知識を追求した結果の現れでありましょう。
世間では成熟した社会と言っていますが、弊害を生み出した社会と言っても良いかもしれません。年月を掛けて築き上げた智慧の文化が、俄か作りの流行(はやり)の文化にとって代わって行ってしまったからでありましょう。
流行の最先端を良しとし、それに翻弄され、それがいかにもトレンディーと思い込んでしまったのであります。
そこで、本日の本題の無門関第15則「洞山三頓(とうざんさんとん)」に入ります。
雲門禅師(864〜949)は、洞山禅師(910〜990)に尋ねました。
「今まで、どこにいたのか。」すると「査渡」と答えました。また、尋ねました。
「今年の夏の修行はどこでしたのか。」すると「湖南の報慈寺」と答えました。また、尋ねました。
「いつ出てきたのか。」すると「8月25日」と答えました。
すると、雲門禅師は、「洞山禅師には、本当ならば罰として、警策60発を与えるところだが、何もしない。」と言いました。
洞山禅師は、頭を抱え込み一晩中、考え込みます。
翌日、洞山禅師は雲門禅師に尋ねます。「警策60発を私にお与えにならなかったのは、何故でしょうか。」
すると、雲門禅師は「この大飯喰(く)らい、どこを彷徨(さまよ)っていたのだ。」一喝しますと、洞山は迷いを転じて悟りを開いたと言うのであります。
『臨済の喝、徳山の棒』と言われるぐらいに、禅の世界では喝や警策が飛び交うのでありますが、雲門禅師は洞山禅師に何故警策を打たなかったのかが、キー・ポイントであります。
よくコーチが厳しく指導している中で、選手が直立不動で「ハイ」・「ハイ」と聞いている光景を見ることがあります。コーチの叱正が一方通行でまったく魂の交流がありません。心が通じていません。まさしく雲門禅師と洞山禅師の問答は形式的な日常会話に過ぎないだけでなく、全く以心伝心が成り立っていなかったのであります。つまり警策60発にも値しないし、まだ警策を与える段階にまで達していないと言うところでしょう。
雲門禅師は警策を与えるどころか、相手にせずに軽くあしらったのであります。これに気付いた洞山禅師は、一晩中、工夫をしました。明くる日に自分の誤りを尋ねたところ、雲門禅師が、
「飯袋子(ハンタイス)、江西湖南便ち恁麼(インモ)にし去るか」と言った途端その言葉の真意をくみ取り、大いに悟ったのであります。ここに二人の間に心の電流が通じて、明かりが灯ったのであります。
お盆行事に参加されました皆さん、亡き方との心の交流をして、私たちの心に明かりを灯したいものであります。
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