53.平成26年8月2日(土) 施餓鬼会の一席
演題「国師三喚」 住職(服部潤承) | |
本日は、生憎の小雨日和、暑い上に長時間の施餓鬼法要に大勢お参りくださいまして法幸に存じます。これからお盆を迎えることになりますが、皆様の亡き方のお精霊が仏様となって各家にお帰りになることと存じます。
さて、法話に入りたいと思います。お父さんとお子さんが車に乗ってドライブに出かけました。ところが運悪く交通事故に遭ってしまいました。この親子は、別々に病院に運ばれます。
お子さんが運ばれた病院のドクターが思わず、このお子さんを診て「この子は私の子供です。」と叫びました。
「エー」と思われた方は、要注意です。『思い込み』は、身近にいたるところにあります。ドクターと言えば、男性がほとんどですが、時より女医さんがいらっしゃいます。そうすると、先程の話ですが、交通事故に遭ったお子さんは、お母さんがドクターとして勤めている病院に運ばれ、担当医が偶然にもお母さんになっただけであります。ドクターは男性がしているものだと云う『思い込み』が、「エー」と言う思いをさせたのであります。
近頃、ウクライナ・ドネックス州やイスラエル・パレスチナ自治区ガサで毎日のように殺戮が繰り返されています。動物にも悖る諸行と言わざるを得ません。
と。言うのは、インド国立公園で73歳の象が老衰のため死にました。飼育員だけでなく、仲間の象たちも涙を流してその死を悼みました。多くの観光客を乗せて園内を案内し、犀や他の動物を見せて回りました。森林管理人の一人が、「困難な状況にもうまく対処する大きさと成熟を持っていた象」と称賛しました。
日本昔話に、旅人が夜の山道でオオカミに出会い、喉に刺さった棘を抜いてやると、オオカミは旅人を道案内し、旅人は危険な山道を抜けることができたと言うことでした。
ニュースで世界中に配信されていましたが、シカゴのブルックフィールド動物園のゴリラの飼育場に3歳くらいの男の子が誤って転落しました。周囲の見物人は悲鳴を上げ、それに気づいた大人のゴリラが男の子に近づいてきました。凶暴なゴリラが今にも男の子を叩き潰すのではないかと思った瞬間、ゴリラは男の子を優しく拾い上げ、飼育係の部屋の前まで運びました。このゴリラを『タイム』誌は、「アメリカの誇り」と褒め称えました。
このニュースの10年前にも、イギリスの動物園でゴリラの囲いの中に落ちた男の子を大人のゴリラが助け、男の子の背中をさすりながら、他のゴリラを近づけないように守ったと言うのです。
もう一つ、半年前にもこんな話がありました。オーストラリアの農場主が強風で倒れた木の枝に当たり、意識不明になりました。この時、放し飼いにされていたカンガルーが300メートル離れた農場主の家まで走り、ドアを前脚でノックして家族に知らせました。ノックに気づいた家族がカンガルーを見ていると、農場主の倒れている所へ走って戻って行きました。家族は駆けつけてすぐに救急車を呼び、農場主は病院で意識を取り戻しました。かつて、ドアをノックしたカンガルーは、車にひかれて死んだ母親の腹袋でぐったりしていたところを、この農場主に保護されて育てられたのであります。
世界中に、このような話がたくさんあります。動物と人との関わりの中で、動物にも人と同じような優しい温かい感情を内に秘めていることが分かります。
2500年前、私たちにお釈迦様は、「山川草木悉皆成仏」「一切衆生悉有仏性」とおっしゃっています。「山も川も草も木も、あらゆるものが仏さまである。」「この世のすべてのものが、仏さまになることができる。」と明言されています。一般社会の尺度からくる『思い込み』を少しずつでも取り除き、広い視野での見識を身につけたいものであります。
前置きが長くなりましたが、既にお知らせいたしておりました『国師三喚』について、お話しを致しましょう。
無門関の第17則に、
国師、三たび侍者を喚ぶ。侍者、三たび応ず。
国師云く、「将に謂えり、吾、汝に辜負すと。元来却って是れ汝、吾れに辜負す。」
口語訳をしますと、南陽の慧忠国師が三回、侍者を呼びました。すると、侍者は三回「ハイ」と返事をしました。慧忠国師は用も無いのに、三回も侍者を呼んだことは、侍者に対して期待に添わない不誠実な呼び立てをしてしまったと思っていたが、侍者がこの私に対して、期待に添わない不誠実な返事をしたのではないかと。
慧忠国師(675〜775)は、南陽(河南省)の白崖山・香厳寺に40年間、修行されました。また、時の皇帝、粛宗や代宗の禅の師匠となられましたので、国師と呼ばれたのであります。丁度、隠元禅師が後水尾法皇の禅の師匠となられ、普照国師と呼ばれたように、慧忠国師(大証国師)と呼ばれたのであります。
侍者と言うのは、御付きの僧のことで、慧忠国師の侍者、『耽源応真禅師』のことであります。国師は三回「応真」と呼びました。すると、侍者の応真も、その度に「ハイ」と応えました。その返事について考えてみよう言うのが、このテーマであります。
一回目の返事は、「ハイ。ここにいます」客観的なものでありましよう。
二回目の返事は、「ハイ。何をいたしましようか」主観的なものでありましよう。
三回目の返事は、「ハイ。〇〇〇」気の抜けた返事・から返事では、期待に添わない不誠実なものでありましよう。
この件に関しまして、お師家様(老師・雲水の師範)の提唱のお言葉を拝借して申すならば、「比較対立から抜け出したもの」「他念余念を入れざるもの」「経験以前のもの」「思慮分別を超え、天地いっぱいのもの」でなければならないと、おっしゃっています。
「ハイ」一つでも、全身全霊を傾けなければならないことに気づかされます。何事も誠心誠意・命がけで取り組まなければなりません。
長らくご清聴ありがとうございました。
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