●路逢達道

44.平成24年3月20日(火) 春季彼岸会の一席
 演題「路逢達道」  住職(服部潤承)

 
  春のお彼岸が待ち遠しかったのは、私だけではなかったと思いますが、皆様はどうでしょうか。
 歳のせいか、一月・二月は大変寒く感じられました。それが、水がぬるみ、陽光が日増しに輝き、草木が芽ばえ、鳥のさえずりがここかしこに聞かれるようになりました。いよいよ春の到来であります。
 六方礼経という経典があります。六方とは上下・東西南北を指し、そこに向かって礼拝することを説いた経典であります。
 上に向かって神仏を敬い、下に向かっては一切衆生を敬う。東に向かって親を敬い、西に向かって夫や妻を敬う。南に向かって師を敬い、北に向かっては友を敬って礼拝いたします。これは、感謝の気持ち・ありがとうの気持ちをいつまでも持ち続け、忘れないことを意味しております。ややもすると忙しい時代であります。忙しいという字は心をうしなうと書きます。
 昨年、喉頭癌で亡くなった七代目立川談志の十八番に、『芝浜』があります。夫婦の愛情を温かく描き、古典落語の中でも屈指の人情囃として知られています。
 魚屋の勝は酒におぼれ、アルコール依存症になり、仕事にまったく身が入らない日々が続きます。或る朝早く、女房に叩き起こされ嫌々ながら芝の魚市場に向かいます。しかし、時間が早過ぎたために魚市場はまだ閉まっていました。
 誰もいない芝浜の美しい浜辺で顔を洗って煙管を吹かしていると、そこで偶然にも革財布を見つけます。開けると中にはびっくりする程の大金が入っております。うれしくなった旦那は自宅に急いで帰り、遊び仲間を呼び集めて浮かれ気分で気が大きくなって前後不覚になるまで酒盛りをしました。
 翌日、二日酔いで起きて来た旦那に女房は、こんなに呑んで酒代をどうするのかと、咎めます。旦那は拾った革財布の件を躍起になって説明しますが、女房は、そんなものは見たことがないと言います。焦った旦那は家中を引っ繰り返して革財布を探しますが、何処にも見当たりません。旦那は愕然として、ついにあの革財布を拾った件を夢だったのだと諦めます。
 以来、旦那は酒を断ち、心を入れ替えて真剣に働き出します。一所懸命に働いた末、生活も安定し、財産も徐々に増え、やがて人並みに店を構えることができた三年後の大晦日の夜のこと、女房は旦那に例の革財布を見せて「騙して申し訳ない。」と心から謝って涙を流しながら告白をはじめます。
 あの日、泥酔いの旦那から拾った大金が入っている革財布を見せられた女房は困惑しました。遺失物の横領は、死罪にあたります。江戸時代では、十両(後期は七両二分)を窃盗すると死罪であります。長屋の大家と相談した結果、大家は革財布を拾得物として役所に届け、女房は旦那の大酔に乗じて、「財布など最初から拾ってない」と言い切ることにしました。時が経っても遂に落とし主が現れなかったため、役所から拾い主の魚屋に財布の大金が下げ渡されたのでありました。
 この真相を知った旦那は、妻の勝手な行動を責めることなく、道を踏み外しそうになった自分を助け、真人間へと立直らせてくれた女房の機転に深く感謝しました。
 偉ぶらない女房は一所懸命に頑張ってきた旦那の労をねぎらい、久し振りに酒でも呑みませんかと勧めます。はじめは拒んだ旦那だったのですが、やがておずおずと杯を手にして、「うん、そうだな、じゃあ、呑むとするか。」しかし、思い立った旦那はついには杯を置きます。
 「よそう、また夢になるといけねぇ」
という落ちで終わります。
 「実は大金を拾ったのは現実だった。わたしが嘘をついた。」と、衝撃の告白をする女房を立川談志は、「騙(だま)して申訳無い」と心から謝罪して涙を流す。偉ぶらない女房として、語られました。
 賢(けん)夫人(ぷじん)と言えば、『古事記』中ノ巻に、穂積忍山宿禰(おしやますくね)の子で、倭(やまと)建(たけるの)命(みこと)の妃であります「弟橘(おとたちばな)比売(ひめ)」の活躍ぶりが記載されています。
 倭建命が走水の海、今の浦賀水道を渡る時、渡(わたり)の神が波を起こして船を進ませないのでした。そこで后の弟橘比売は、「あれ御子に、かはりて海中に入りなむ。御子は任(ま)けられえし政(まつりごと)遂げて覆(かへりごと)奏(まおし)たまはね。」と言って、菅畳八重、皮畳八重、きぬ畳八重を波の上に敷いて、その上に降りました。すると荒波は凪いで、倭建命は渡ることができたというであります。弟橘比売は我が身をいけにえとして捧げて、渡の神の怒りを鎮め、倭建命を無事に渡らせたのであります。
 入水の際の作として伝わっている歌があります。
 “さねさし 相模(さがむ)の小野に 燃ゆる火(ほ)の 火中(ほなか)に立ちて 問いし君はも”  相模の野原で、燃えていた火の、その火の中に立って、私に声をかけてくださったあなた(倭建命)様よ。私は幸せです。
 現在、弟橘比売は海の守護神として信仰を集めています。昨年、3月11日の東日本大震災で、津波が宮城県南三陸町を襲った時、町の防災放送を担当していた女性職員が、津波襲来時も町民を助けるために、放送をやめず、津波の犠牲になりました。現代版弟橘比売と申せましょう。その女性職員は、遠藤未希さんです。当時24歳、役場の危機管理課に所属し、防災放送のアナウンスを担当していました。防災対策庁舎の2階で放送を続け、津波に呑まれました。その時、3階建て庁舎の屋上のアンテナにしがみついて助かった職員もいました。しかし、そこには遠藤未希さんの姿はありませんでした。津波が襲来し、浸水している中でも、遠藤未希さんの声が響いていました。最後の最後まで放送を続けて職務を全うしました。
 4月23日に、遺体が捜索隊によって志津川湾で発見されました。前年の7月に結婚したご主人がプレゼントしたミサンガが左足首に巻かれていました。
 ところで、南三陸町では約1万人の人々が避難して助かりました。遠藤未希さんのアナウンスに助けられた人が多いことでしょう。防災放送を聞かなかったら逃げていなかったという人もいたでしょう。アナウンスが「切羽詰まった声だから。」と、避難したという人もいます。
 母親の美恵子さんは避難所で、隣の地区の女性が「あの声が忘れられない。あの声に助けられた。」と話しているのを聞いて、思わず「それは私の娘です。」と声をあげたそうです。「6メートルの津波が来ます」と、アナウンスしていました。2階でアナウンスを続けていては自分も助からないことは、わかっていたはずです。しかし、アナウンスをやめなかったのです。
 このニュースに対して、次のようなコメントが出ていました。
 こういう人は、おそらく死後も霊界であまり苦しまず、悟ることができると思う。そして、尊い自己犠牲を実践した人間として、霊界で高いところまで成長できるだろう。たしかに、現代のオトタチバナヒメだ。海神の怒りを買った夫の日本武尊(やまとたけるのみこと)を助けるために、自ら海に身を投げた。私も、この女神さま(オトタチバナヒメ)や遠藤未希さんのように、自分も自己犠牲の行いができるようにならないといけないのだ。とありました。今、日本に求められているものは、無心になって全身全霊を傾けることでありましょう。
 そこで、本日の演題、「路逢達道」に入ります。
 『無門関』第36則 路に達道に逢う
五祖曰く、「路に達道の人に逢わば、語黙を将(も)って対せざれ。且(しばら)く道(い)え、甚麼(なに)を将ってか対せん。」
 五祖法演和尚がおっしゃった。「道路上で道を究めた人に逢ったとき、挨拶を言葉でくどくどと言うのもよくないし、かといって黙っているのもよくない。あなただったらどうしますか。」と言う問いかけであります。
 私達は、言葉の限界をよく知っております。言葉を尽くしても、尽くしきれないことが度々あります。
 お釈迦様は、言葉で人々に真理を説かれました。これを八万四千の法門と申します。それがお経として残り、現在も読み継がれております。しかし、八万四千の法門以外に、言葉をもちいないで伝えているものがございます。これを、「不立文字、教外別伝」と申します。お釈迦様は一番弟子の摩訶(まか)迦葉(かしょう)に、花を拈じて無言で真理を伝えられました。それを察知した摩訶迦葉は、微笑で返答したのであります。これを「拈花微笑」と申します。このように言葉をもちいないで、心をもって心を伝えるのが禅のお悟りであります。これを「以心伝心」と申します。隠元禅師も次のようなことをおっしゃっています。「単伝直指の道、別に言説なし」禅の道は言葉を必要としないと言うことでしょう。
 話を元に戻しまして、道路上で、悟った人に会ったら、深々と礼拝するのもよいし、無門慧開禅師(1183〜1260南宋)のように、殴りかかるのもよい。ただ、それがポーズや格好だけであってはなりません。悟った人は、演出や不自然な振る舞いを嫌うものであります。認めてもらいたいがために、意識的に行動したり、悪意をもって殴りかかったりするのであれば、それは分別の働きと言えましょう。
 悟った人はもちろん、人々に対する時は、はからいを捨てた自己本来の姿で自然体に振る舞うのが良いのではないかと思います。
 とにかくパフォーマンスやスタンドプレイが横行する昨今、考えされるものであります。



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