39.平成22年9月23日(木) 秋彼岸会の一席
演題「徳」 住職(服部潤承) | |
秋のお彼岸を迎えましたが、昨日まで暑い日が続いておりました。
今年の夏だけで熱中症で亡くなった方が、503人を越えていると聞いております。
大変、お気の毒なことでございます。
私達のできることは冥福を祈ることぐらいしかできません。
この異常気象は日本だけではありません。
中国では1月に夏入りになり気温30度を越え、大干ばつで水不足になり300万人以上が食糧難に直面しています。
ロシアでは森林や泥炭の火災と猛暑で、一日の平均死亡者数が倍増し、火災で森林が1740平方キロにわたり消失しました。
北極圏のグリーンランドにある氷河から、ニューヨークのマンハッタン島4個分に相当する巨大な「氷の島」が海上に崩落しました。
インド・パキスタン・イラクでは50度の高温に見舞われました。
ヨーロッパでは猛暑で1600人が死亡しました。
また、NASA(アメリカ航空宇宙局)が上層大気の熱圏崩壊を発表しました。
世界中、温暖化のニュースばかりですが、この暑さが秋の実りを齎すことも違いありません。
しかし、「暑さ」「寒さ」はもちろん、何事も「ほどほど」のよさがよろしいのではないかと思うのであります。
では、本日の演題の「徳」に入りたいと思います。
お釈迦さまは、私達に、「死んでも死なないもの」について、解り易く例え話をしていただいています。
或る男性に4人のご夫人がいました。
この男性は4人のご夫人に尋ねました。
「もし私が死んだら、どうしますか。」という問いです。
第1夫人は、「あなたが亡くなったら、すぐにお別れです。」
第2夫人は、「あなたが亡くなったら、お別れはつらいですが、お別れをしなければなりません。」
第3夫人は、「あなたが亡くなったら、お墓まではついていきますが、そこでお別れです。」
第4夫人は、「あなたが亡くなっても、いつでも、どこまでも、ついてまいります。」
と、それぞれのご夫人は答えます。
そこで、この4人のご夫人を何に例えているのか、考えてみたいと思います。
第1夫人が、「すぐにお別れです。」と言ったのは、この身体を例えています。
お葬式が終わりますと、すぐに火葬に付します。
すぐにお別れなのであります。
第2夫人は、「お別れはつらいけれども、どうしてもお別れをしなければなりません。」と言うのは、名利を例えています。地位やお金・財産がその代表的なものです。
社長であっても、新しい社長に替わっていかないといけません。
広い土地や立派な家を持っていても、他の名義に変えないといけません。
お別れは否だけれども、お別れをしなければならないものであります。
第3夫人は、「お墓までついて行きますが、そこでお別れです。」と言うのは、家族・親類・知人を例えています。
これらの人は、お墓に埋葬するところまでは、立ち会ってくれますが、お墓の中までは、入ってはくれません。
お墓のところでお別れということであります。
第4夫人は、「死んでも、どこまでも・いつまでもついて行きます。」と言うのは、『徳』を例えています。
姿こそ見えませんが、普段のよき行いが、今はもちろん、未来永劫生き続けるのが、『徳』であります。
その徳も、今、命のある間に、しっかり積んでおかなければなりません。
よく、「あの人は徳の高い人」だとか、「あの人は徳のある人」だと言われるのは、徳を積んできた人のことを言うのであります。
では、徳を積むのには、どのようにしたらよいのでしょうか。
それは、ずばり六波羅蜜を行じることから始めたいと思います。
春秋のお彼岸になりますと、「六波羅蜜」と言うのを聞きます。
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧を「六波羅蜜」と言います。
一つ、布施波羅蜜と言うのは、手元にある布を人様にさし上げることを言います。
その代表的なものが僧侶の袈裟であります。
よく見ますと切れハギがつなぎ合わされています。
布に限らず、自分のできることをさせていただくことが、布施波羅蜜でございます。
二つ、持戒波羅蜜と言うのは、戒を持つと書きます。
戒とは、戒め・戒律のことで、一般的には、法律・ルール・約束を言い、持とは、持つ・保つことで、一般的には、守ることを言います。
交通法規を破るから、交通事故が起きますし、家の約束を破るから、家庭がもめるのであります。
法律・ルール・約束を守ることが、持戒波羅蜜であります。
三つ、忍辱波羅蜜と言うのは、辛抱すること・耐えることを言います。
桃栗三年・柿八年・人間一生と申しますように、実をつけるまでには、年月がかかります。
木々も人も、風雪に耐えてこそ、花も咲き、実もつけるものであります。
四つ、精進波羅蜜と言うのは、精進努力と申しますように、誠心誠意、一生懸命に頑張ることを言います。
家庭に・学校に・会社に・社会に・国家に、私達がその場その場のおかれている立場において、徹しきること・そのものになりきること・三昧境に入ることであります。
そこには、私という細微な自我は微塵もありません。
五つ、禅定波羅蜜というのは、身体を整え・呼吸を整え・心を整えることであります。
背筋をピンと延ばし、全身の血流をよくすることと、脳波のα波がよく出るようにします。
鼻から息をゆっくり吐き出し、鼻から短く息を吸い、胸で呼吸をするのではなく、横隔膜で呼吸します。
心は、胸や頭におかないで、丹田・おへその下におきます。
心はコロコロと変わるから心といいます。
変わり易い心を胸や頭におきますと、悩んだり、思い込んだりします。
心静かに落ち着いて、無心に近づける努力が必要であります。
六つ、智慧波羅蜜と言うのは、仏智と申しまして、仏さまの智慧のことであります。
仏智は、本来、私達に備わっているものですが、小さい時からの生活環境や教育によって、すっかり雲に隠れてしまっております。
その曇りを払い退けて、ガラスを磨くように透き通らせることであります。
お釈迦さまは、29歳から修行に入られ、35歳の12月8日に悟りをひらかれました。
その悟りが仏智であります。
その仏智は、万民1人1人が持っていますが、悲しいことに磨かれておりません。
曇ったガラスのようになっているだけなのであります。
話を元に戻します。
徳行と言うのは、決して難しいものではないと、ご理解いただけたことと存じます。
今日を機会に、是非とも六波羅蜜・六つの徳目を行じられますことを勧めます。
最後に、「徳」という字は、ギョウニンベンに、旧字で「直に心」と書きますので、直心を行ずると言う意味であります。
直心と言うのは、「神さまの根元の働き」のことですから、神さまの御心を行ずるのが「徳」であります。
言い替えれば、神さまの働きそのものが「徳」と言ってもよいかもしれません。
その徳を成り立たせている最も重要なものが「中庸」です。
仏教で言う「中道」のことです。
2つの極端の中間・中庸・中道によってこそ、人間の最上の状態を発揮することができます。
それが、均整のとれた精神の在り方です。
例えば、臆病と無謀の中間は勇敢、ケチと浪費の中間は気前の良さ、怒りっぽさと意気地なしの中間は穏やかさ、自慢と卑下の中間は誠実さだったりします。
今、中庸の徳に基づく魂の活動が求められています。
そう言えば、「宥座(ゆうざ)の器」と言うのがあります。
この器は、何も入っていない時は傾いており、水を7・8分目入れますと安定し、さらに注ぎますと、ひっくり返ってこぼれてしまいます。
世の中、全てがこの器と同じで、「虚なれば傾き、中なれば正しく、満つれば覆る」中庸の徳を私々に教えているのであります。
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