36.平成22年3月21日(日) 春季彼岸会の一席
演題「胡子無鬚」 住職(服部潤承) | |
年が明けてから、大きな地震が数回、発生しております。
その一つが、1月12日(火)午後4時53分、ハイチでマグニチュード7.0の強い地震が発生し、死者が23万人に達しました。地震発生後、80時間を越えると生存率が極端に下がり、生き埋めになった生存者を捜索するのを止めるのが通例のようであります。
ところが、今回のハイチで、地震発生後2週間や1カ月が経った後にも、生きて救出されているニュースが世界に報じられていました。何を根拠に、捜索・救出の時間を設定しているのでしょうか。
そういえば、脳死もそうです。臓器移植の際には、脳死も人の死と決めつけているのでしょう。しかし、脳死の状態から蘇生・生還・意識を回復した例が少なからずあります。尊い人の命を大切に扱えないのでしょうか。
『人を救うのは人しかいない』人の命は人しか助けられません。そして、決してあきらめてはならないのです。あきらめたところで終わりなのです。結果は、ともあれ『やり通す』ことでありましょう。
二つ目の地震は、2月27日(土)午前3時34分、チリ中部でマグニチュード8.8の地震が発生し、甚大な被害が出ております。
なかでも、物資の略奪後に放火をするという悪質ぶりです。ハイチでも物資の略奪はあったそうですが、放火にまでは及ばなかったようです。
平成7年1月17日、阪神淡路大震災がありました。同じような境遇でありながら、物資の略奪や放火はありませんでした。さすが日本。見知らぬ他人同士が物資を分け合いました。門戸厄神の駅前では、花屋さんが、亡くなった方にと、無料で花を提供していました。国道2号線沿いの歩道では、初老の男性が、「水、水いらんか」と、行きかう人達に呼びかけていました。天皇皇后両陛下が被災地の体育館に見舞われました時、両陛下は靴を脱がれて、靴下のまま一人一人に元気づけられました。美智子妃殿下の「がんばりましょうね」という両手での優しいガッツポーズが非常に印象的でありました。
あの地震は、固い壁や高い塀を壊しました。しかし、私の心の壁や塀も壊したのであります。皆が助け合い、分け合い、励まし合ったのであります。日本が蘇ったのです。昔、『村八分』と言う言葉がありました。あまり良い言葉ではありませんが、村の約束を違反した者に対して、村の者が、申し合わせて、取引や交際を絶ちました。しかし、火事と葬式だけは違います。例え村八分にあっても、一大事の時は皆が助け合ったのであります。
三つ目の地震は、3月4日(木)午前8時18分、台湾南部で、マグニチュード6.4の地震があり、台湾高速鉄道(新幹線)が運行停止になりました。
文明の利器とは言え、大自然には到底勝てません。この本堂も鉄筋コンクリート造りで、外装を塗料でコーティングしており、自然災害にはびくともしませんと、建築業者が太鼓判を押していました。
しかし、阪神淡路大震災から15年も経ちますと、震災に痛めつけられた上に、夏は太陽にジリジリと焼かれ、冬は寒風に吹きさらされ、温暖化のせいか大雨が容赦なく叩きつける、そのような大自然の猛威には、やはり勝てません。
特に、優美と言われている屋根の曲線部にいくつもの罅が入り、雨が入り込み、中のコンクリートや鉄筋を侵食し始めております。自然と対峙する・向き合うという事は、何と難しいことでしょうか。地震の傷跡を見ると、人間の力など無力に等しく感じられます。自然の力の前では、人間の力など一溜まりもありません。ましてや、自然を征服することなど、とんでもないことであります。
人間は、自然の一部に過ぎないのに、それをすっかり忘れてしまい、自然の征服者と勘違いをしてしまったのであります。
地震・温暖化・環境汚染・新型インフルエンザ・・・自然の逆襲なのかもしれません。
この間、春の小川の河川敷を通っていましたら、青テントの掘立小屋がありました。今にも潰れそうでした。しかし、例え大地震があっても大丈夫のように思いました。例え潰れても下敷きになって死ぬことはありませんし、また、すぐに建て直しができるのではないかと思いました。自然と一体となって生きる姿や自然と調和して生きる様子を垣間見て、近代的合理主義の欧米文化の中で、不安と背中合わせに生きることに、いささか疑問を感じざるを得ません。
話しは変わりまして、大阪府知事ではありませんが、新しい国のカタチをつくるために地方分権型社会の実現を目指しているのが、今の日本です。政治・経済・文化の一極集中を是正して、地方に分散化するのがねらいであります。そして、地方のことは、地方にまかせて、地域の文化・特性を魅力あるものにするのが地方分権です。
これは、江戸時代の幕藩体制によく似ています。江戸末期、全国に276の藩があり、それぞれの藩には藩主・殿様がいました。藩主は、年貢・税金を徴収したり、訴訟を裁いたり、藩校を創設し、教育したり、農・工・商の振興に力をいれたりして、藩領内の管理・支配をしておりました。
その上に、中央政権として、将軍を頂点とする江戸幕府が存在し、各藩を監視し、外交や国防を担当する地方分権型社会を形成していました。ですから、二百七十年の日本歴史上、稀にみる長期安定型社会が確立出来たのかもしれません。
ちなみに、当麻田藩も二百七十年間、青木家が代々、藩主を務め、一度もお国替え等はありませんでした。
麻田藩は、ご本山の萬福寺や佛日寺の建立・仁和寺や多田神社の修復やらで、経済的に大変困窮しておりましたが、大根屋「岸上小右衛門」の手助けにより幕末には健全財政となりました。
明治に入り、藩から県に制度が変わり、麻田藩から麻田県に、青木重義藩主から青木重義知事に公称が変わりました。その後、麻田県は、大阪府に統合されることになり、青木重義知事は、東京に移り住み、子爵となり貴族院議員に就任して国政に携わったのであります。
新しいものを生み出すには、故きを温め新しきを知る『温故知新』と言うのも大切に思うのであります。
さて、本日の演題は、「胡子無鬚(こすむしゅ)」でございます。
無門関の第四則に、
或庵曰く、「西天の胡子、なんによってか鬚無き。」
無門曰はく、「参はすべからく実参なるべし。悟はすべからく実悟なるべし。者箇の胡子、直にすべからく親見一回して初めて得べし。親見と説くも両箇となる。」と。
口語訳をいたしますと、
或庵禅師が、「インドから来た達磨大師は、どうして、鬚がないのか。」と尋ねました。
そこで、無門禅師がおっしゃった。
「禅の修行は、本当の修行でなければならない。悟りは、本当の悟りでなければならない。この達磨大師に直参して、親しく向き合ってこそ、初めて達磨大師を知り得ることができる。しかし、「親しく向き合う」と言うことは、達磨大師と私が対峙して、相対的な二元の世界に陥ることになる。それでは、禅の悟りとは言えない。達磨大師に鬚が有るとか、無いとかと言うのも、相対的な二元の世界なのである。」と、
この禅問答を、皆さんはどのようにとらえられますか。
この十年前ぐらいまでは、日本国民全体が中流意識のもとで暮らしておりました。しかし、「差別化」・「勝ち組み」・「負け組み」・「格差」とか言う言葉が流行するにつれて、日本国民から中流意識が薄れ、「格差社会」が現実味を帯びてまいりました。
小林一茶の句に、「めでたさも 中位なり おらが春」と言うのがあります。
「中ぐらい」と言うのは、非常に曖昧な言葉ですが、「中ぐらい」の中には、上も含むし、下も含むのであります。ところが、「差別」とか「格差」は、どちらか一方に片付けてしまいます。今流行の言葉で言いますと、「仕分け」をしてしまいます。
つまり、上下・左右・善悪とかのように、仕分けをするのが、相対的な二元論の発想と言わざるを得ません。
今日は、お彼岸の中日であります。暑さ寒さも中ぐらい。夜と昼の時間も中ぐらい。私の心も中ぐらいでありたいと思います。
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