35.平成21年9月23日(水) 秋季彼岸会の一席
演題「隠元禅師」 住職(服部潤承) | |
今年は、例年になく早く秋がやってまいりました。涼しさが深まるにつれて、新型インフルエンザが猛威を奮うとか。大変心配なことでございます。世界的な流行でワクチンの製造が追い着かないようであります。
数に限りがあるワクチンを誰から接種するのか、話題になっておりました。私達一人一人が試されているのではないでしょうか。我勝ちに、自分さえ助かればと、ワクチンの接種を願う人が多い中で、自分はさて置き、将来ある歳若き子供たちを先にとか、次の世代を担う若い生命を生み出す妊婦さんを先にとか、今まで長年にわたり、世の中を支えていただいたお年寄りを先にとか。
利他・他人の幸福や利益を考えられる余裕が欲しいものです。
スリーランカ上座部仏教の長老のアルボムッレ・スマナサーラ僧正が、『「やさしい」って、どういうこと』という本の中で、次のようなことを言っています。
生命なら生きていたいのです。それはごく自然です。(中略)エゴを捨てて、ネットワークで自然に出てくる義務を果たすなら、ネットワークは、あなたに必要なものをぜんぶ用意してくれます。
と。つまり、「じぶんさへよければ」と言う考えを捨て、「今、なすべきことをしていると。」「なるようになる。」のであります。
さて、本日の演題は、隠元禅師であります。中国に明という時代がありました。西暦で申しますと、1368年から1643年の275年間であります。
この明の末期、政変の混乱期に明の文明を、もたらした方がいます。近松門左衛門の『国性爺合戦』という浄瑠璃で有名な国性爺こと田川福松・中国名「鄭成功」の案内により、承応3年・1654年に来朝したのが隠元豆で有名な隠元禅師であります。
隠元禅師は諱・生前の名前を隆gと申します。明の福州府福清県の人で、万暦20年・1592年11月4日に、この世に生を受けます。現在もこの日を慈愍忌と申しまして、お誕生日をお祝いしております。
6歳の時、父親が旅に出て行方不明になってしまいます。21歳の時、父親を捜し金陵(南京)に尋ねましたが、会うことが出来ず、そのまま、普陀山潮音洞で仏道修行に入りました。
28歳の時、母親を亡くして、その翌年、黄檗山萬福寺の門を敲き禅の修行に励みます。
43歳1月の時、師匠の費隠通容禅師から印可・悟道が認められ、臨済正伝三十二世を嗣法・法を嗣ぎました。
46歳の10月1日に師席・住職の席をついで、黄檗山萬福寺の住持を務め、52歳まで伽藍復興に力を尽くし、53歳で退山しますが、明朝が滅び、争乱から黄檗山萬福寺を護持するために、55歳の時、再住・再び住持を勤めることになります。
その時、長崎の興福寺の逸然性融禅師が四回にわたり熱心に招請・日本に招きます。
承応3年。1654年6月21日、63歳の時、アモイを、日本滞在3年間の約束で、門人30名を伴って出航します。そして、7月5日に長崎に到着します。10月5日、興福寺で、安居を結制・坐禅会を開催したところ、日本僧が70名・中国僧が20名参集して、大いに賑わいました。
妙心寺派の虚れい(木に霊)了廓禅師や龍渓宗潜禅師は、隠元禅師を京都花園の妙心寺の住持に迎え入れようと働きかけましたが、妙心寺派の愚堂東寔禅師らの反対に会い、妙心寺への晋山は実現しませんでした。
隠元禅師を妙心寺の住持に迎え入れることができなかった龍渓禅師らは、自分が住持している高槻の普門寺に招き、明暦元年・1655年9月6日に晋山し、幕府からも毎月米15石(百人扶持)があてがわれました。
万治元年・1658年11月1日、龍渓禅師らを伴い、4代将軍徳川家綱公に拝謁します。また、江戸滞在中に、大老酒井忠勝公の父上忠利公の33回忌の大導師を務めます。因みに、酒井忠利公の令嬢は、麻田藩主2代の青木重兼公の令室、奥方であります。普門寺に帰った後、隠元禅師は帰国の意志を酒井忠勝公にもらします。
万治2年・1659年、5月3日、68歳、酒井忠勝公は隠元禅師に尺牘・手紙を送ります。その内容は、将軍徳川家綱公が、京都に一寺建立のために寺領を与えるという趣旨でありました。この年、麻田藩主青木重兼公は松隣寺を池田の畑に移し、隠元禅師が佛日寺と命名・開山しました。そして、寛文元年・1661年、慧林禅師を佛日寺初代住持に命じました。一方、慧林禅師を江戸幕府に遣わして、黄檗山萬福寺建立の寺領を下賜・頂戴した謝意を表しました。
因みに、幕府が下付・下げ渡した寺領は、平安時代より近衛家の領地で、後水尾天皇の生母・中和門院の別邸・大和田御殿がありました。麻田藩主二代の青木重兼公の尽力により、領地を麻田藩近隣の伊丹に替え地として、等価交換し、寺領四百石と境内九万坪の黄檗山萬福寺の造営が寛文元年・1661年5月8日から本格的に始められます。
隠元禅師は酒井忠勝公に、伽藍完成前に晋山したい旨の意志を示され、8月29日、新黄檗山萬福寺に晋山されます。御歳70歳でありました。
寛文4年・1664年、木庵性とう禅師に後をゆずり松隠堂に隠退します。この松隠堂は、隠元禅師の隠居所として、美作津山藩主関備前守長政夫人・松仙院の遺言によって江戸屋敷を移築したもので、現在、平成の大修理中であります。
寛文7年・1667年、12月15日から作事奉行に麻田藩主二代の青木重兼公が当たり、大規模な伽藍工事が始まります。伽藍の出来上がっていく様子を隠元禅師は共にみていたそうであります。
寛文13年(延宝元年)・1673年、隠元禅師は、自らの死の到らんことを知ったのか、元旦の日、山内の寮舎を巡り、「老僧、托鉢行脚し去らん」と、言って、この世での修行は終わったと明言されたようであります。
2月24日、佛日寺の住持をしていた慧林禅師が見舞い、隠元禅師は大変喜ばれましたが、この頃から病気が重くなりました。
3月1日、隠元禅師は、見舞いの者に、心境を次のように述べられます。
「病もまた常事、死もまた常事。」
3月29日には、
「快活、快活。生も也た快活。死も也た快活。」 心地よい、心地よい。生きるも心地よい。死ぬるも心地よいと、生死を超越した心境が述べられます。
4月2日、後水尾法皇から「大光普照国師」の号が贈られます。
4月3日、正午、隠元禅師は洗面をして坐禅を組まれます。しばらくすると、弟子達が用意した筆を執り、遺偈・臨終の漢詩を書くように願い出ます。そこで、弟子が用意した筆を執り、遺偈を認めます。認め終わると、再び目を閉じて坐禅を組まれました。そこに、麻田藩主二代の青木重兼公と青木直影公が見舞いに訪れます。二人が退くと、静かに遷化・なくなりました。実に未の刻、今の午後二時のことでした。
その遺偈は、
西来のしつ(木に即)りつ(木に栗)雄風を振るい
檗山を幻出して功を宰せず
今日身心倶に放下して
頓に法界を超えて一真空
現代訳をしますと、
達磨大師がインドから中国にやって来て禅を伝えたように、私は中国から日本にやって来て、禅の大いなる風を起こしました。
そのおかげで、日本に黄檗山が夢か幻かとおもわれるような立派に出来上がりました。しかし、自慢などいたしません。
本日、心も身も捨て去り、無我に入ります。
そうしますと、たちどころに法界・仏門世界を飛び出して、唯一、真実なる空・悟りに到ります。
と、認めて亡くなったのであります。お歳82歳でした。
隠元禅師が新黄檗山萬福寺に、寛文元年8月29日に晋山されて、まる350年になるのが、平成23年でございます。ご本山では、隠元禅師晋山350年を記念して多くの行事が開催されますので、佛日寺からも久しぶりに団参をいたしたいと存知ます。詳しいことは、その時期が参りましたらお知らせいたします。
|
|