●お地蔵さまの微笑み

34.平成21年8月22日(土) 地蔵盆の一席
 演題「お地蔵さまの微笑み」  住職(服部潤承)


 大自然が荒れております。大雨・龍巻・台風・地震・新型インフルエンザ。次から次へと、ひっきりなしに自然災害が発生しております。そのたびに、犠牲者が少なからず出ていることは、悔やまれてなりません。 先ずは、この自然災害に尊い命を落とされました方々に謹んで冥福をお祈り申し上げます。
 以前、大映で「大魔神」「大魔神怒る」「大魔神逆襲」と言う映画がありましたが、自然災害が起きるたびに思い出します。この三作の共通するストーリーは、悪人が陰謀をたくらみ、民衆を虐げると、穏やかな表情の石像が巨大化して、破壊的な力を発揮すると言うのであります。
 自然災害のニュースを見聞きするたびに、小さい頃に鑑た映画を思い出しては、人間の傲慢無礼さに、天地の神々は、ほとほと、愛想を尽かしたのではないかと思う今日この頃でございます。
 それはさておき、また、地蔵盆がやってまいりました。一年の速いこと。この間のことのように思われますが、一年が経ってしまいました。「月日が経つのは速い」と申しますが、歳を重ねるたびに加速度がつくのでしょうか、坂道を転るように速度が上がっているように感じます。
 しかし、時間の経ち方は、今も昔も変わりません。変わったのは、私達の感じ方なのであります。小さい時は、時間がゆっくりと流れていました。いやゆっくり流れているように感じました。ですから、一年が長く感じたのであります。
 ところが、歳をとるにしたがって、時間の過ぎ方が、年々速く感じられ、十年が一年に。一年が一ヶ月に。一ヶ月が一日に。一日が一時間に感じられるそうであります。皆さんはいかがでしょうか。
 しかしながら、時間の感じ方というのは、勝手なものであります。待ち時間と言うのは、短く感じる時と長く感じる時があります。例えば、バス停でバスを待つ時間ですが、後数分と言うのに、なんと長く感じることでしょう。たった数分が、数十分にも感じられ、時間の経つのが遅く感じられます。一方、待ち合わせ時間を約束して、たまたま交通渋滞に合ったりすると、急いでいる時ほど待ち合わせ時間が速く近づくように感じられます。
 例えが変わりますが、佛日寺では毎月第二日曜日の早朝に坐禅会をしております。朝六時から一しゅう(火へんに主)、約四十分ですが、この四十分を長く感じる時と短く感じる時があります。体調や精神状態、季節的な環境等により随分感じ方が変わります。
 一しゅう(火へんに主)、四十分が、ほんの二〜三分に感じられる時や、一〜二時間にも感じられる時があります。心の様相と言うのは、このようなものでころころ変わるものですから、「こころ」と申します。人は気分屋と申しますが、「こころ」は日により、時により変わるものでありますから始末に負えません。 「今泣いたからすがもう笑う」と言う慣用句も、感情と言うものは変化し続けるものと解釈できます。
 この心の様相をどの様にとらえ、どの様にコントロールし、どの様に処するのかが、人生の一つの課題であります。
 ところで、佛日寺の石のお地蔵さんの笑顔は変わりません。建立して二十七年も経ちますと、年輪と申しましょうか、多少黒ずんでまいりましたが、笑顔だけは変わりません。 優しく微笑んで、私達をいつも迎え入れていただきます。このお顔の優しさを「アルカイックスマイル」と申します。
 お布施の一つに「和顔施」と言うのがあります。ただ、優しく微笑んで接することを言います。タイでは、人と接する時ワイ(合掌)して微笑む習慣があります。「和顔施」の実践がそのままタイの文化になったのでありましょう。
 赤んぼうが無邪気にニッコリと微笑むだけで、まわりの人達はどれだけ優しさに包まれ、ささくれ立った気持ちを癒してくれることか、わかりません。微笑ましさが連鎖して、見るもの皆がにこやかになっていきます。
 水面の輪が静かに広がりを見せますように、花の香りがほのかに匂って来るように、お地蔵様の功徳と言うのは、私達にそっと優しく寄り添い、静かにほのかに広がっていくところにあるのではないかと思うのであります。



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