●趙州洗鉢

33.平成21年8月1日(土) 施餓鬼会の一席
 演題「趙州洗鉢」  住職(服部潤承)


 八月に入りまして、関西は、お盆の月になります。
 私達生きているものが、亡くなった方を介して、仲良く・親しく・睦み合うのが、日本のお盆でございます。 普段は、疎遠になっておりましても、お盆を理由に、家を訪ね、家にあがらせていただき、仏壇にお参りできるのが、お盆でございます。ですから、お盆の月は、普段と違って家や仏壇をきれいに掃除をし、お茶・お仏飯・お花等を供えて、いつだれが来られても、気持ちよくお参りできるように、心がけておかねばなりません。それは、親類縁者だけではなく、ご先祖さまも、お盆を理由に帰ってこられるからであります。 お盆は、祝日ではありませんが、国民的休日と言われて久しくなります。役所も会社もお店も、一部を除いてお休みですが、お寺だけは、24時間開いております。そのお盆休みに、一家をあげて、帰省したり、旅行をしたり、家でゆっくりしたり、お寺参りやお墓参りをしたりいたします。政府は、その手助けのために、お盆に限り、平日でも、ETC搭載車を、全国一律千円の高速料金にするように聞いております。渋滞が心配されますが、この不況下、お盆に一役を担っていただくことは、よろこばしいことと存じます。 いずれにいたしましても、欠くことのできないお盆行事は、この日本だけでなく、近隣諸国でもたくさんしているようであります。国や時代が違いましても、大事なことは、大事なのでありましょう。
 本日は、お盆行事の一つとして、お施餓鬼の法要を勤めました。
 亡くなった人が、もしかしたら、餓鬼道に堕ちているのではないだろうかと心配し、もし堕ちているのであれば、一刻も早くお救いして、仏界にのぼってもらおうと思う気持ちは、だれしも持ち合わせております。
 孟子が、次のようなことを言っております。子供が、今にも井戸に落ちそうであれば、我々の心は、「ハッ」とし、どうにかしなければならないという、「人に忍びざるの心」を持っている。この心を「仁」と言い、生まれつき皆、持ち合わせているのであると、孟子は言っております。
 お施餓鬼の精神も、孟子の言う「人に忍びざるの心」つまり、「仁」を実践することでありますし、今、社会で求められているのが、お施餓鬼の心ではないかと思っております。改革の名のもとで、色々なものがカットされてしまいました。カットしないでよいものまで、カットされてしまいました。施す心までカットし、人の格好をした餓鬼ばかりになってしまったのではありませんか。取ることばかりに齷齪して、利便性や効率ばかりに苦心し、利益率を上げることばかりの現在社会。この社会が、そのまま餓鬼道の世界と言わざるを得ません。
 この28年間、月参りや法事に寄せていただきますと、お布施・お茶・お菓子・時には畑にできた、とりたての野菜を頂戴いたします。また、お地蔵さんの赤い前掛けを頂戴したり、家で花が咲いたとおっしゃっては、仏さん用のお花を頂戴したり、家の畑で果物ができたとか、野菜ができたとかおっしゃっては、お寺まで持って来ていただいたり、魚つりに出かけて、たくさん釣れたのでとか、旅行のお土産にとか、色々な心のこもった品々を頂戴して大変恐縮しております。日頃から、どのように報恩感謝をしたらよいのかと、よく考えておりました。
 そこで、この佛日寺をよくすればよいのではないか。つまり、脚もとをしっかり看て、照顧することに専念してまいったわけです。小さいながらも、きれいに整えられた「山椒は小粒でもピリリと辛い」と言う言葉がありますように「ピリリ」とスパイスの効いたお寺を目指してまいりました。内容も随分、充実して、今日を向えられることができましたことを、改めて、皆様にお礼申し上げます。
 最近、臓器移植をするために、臓器移植をする時に限り、脳死を人の死と認められるようになりました。体が温かく、心臓が鼓動を打ち続けているにもかかわらず、親族の了解があれば、死亡と判断して臓器を取り出すことができるようになりました。その改正法案の採決にあたりましては、日本の政界を代表する自民党総裁麻生太郎首相と民主党鳩山由紀夫代表は改正案に反対されましたが、多くの賛成票で改正案は可決されました。アニメ好きの麻生首相ではありませんが、アニメに『銀河鉄道999』と言うのがあります。
 荒筋は、2221年のことで、裕福な人々は「機械の身体」に魂を移して、機械化人となって、永遠に生きられるようになります。貧しい人々は「機械の身体」を手に入れることが、できません。しかし、無料で「機械の身体」を手に入れることができる星『アンドロメダ星』があると言います。主人公の星野鉄郎は、千年の間、生きることができる「機械の身体」を手に入れるために、銀河鉄道999に乗車して、アンドロメダ星を目指します。途中、多くの事件に遭遇しますが、その中で星野鉄郎は気づきます。千年もの長く、生き続けられる「機械の身体」を探しにやって来たが、限りある命の美しさ・限りある命を精一杯生きることの尊さに、気づくのであります。
 確かに、私達は長寿を望みますし、永遠に生き続けたいと思うのが普通の感情でありますが、天から授かったたった一つの命ですし、長寿・短命は天が決めることでもあります。自分の命でありながら、自分では、どうすることもできないのですから、命の質を高めるために、知恵をしぼり出すほかありません。量より質を大切にしていくことによって、短命でも幸福と言えるものにしたいものであります。
 さて、本日の演題は、『趙州洗鉢』であります。
 無門関 第七則に、
 趙州、因みに僧問う、「某甲、乍入叢林。乞う、師、指示せよ。」 州云く、「喫粥し了るや、未だしや。」僧云く、「喫粥し了る。」
 州云く、「鉢盂を洗い去れ。」其の僧、省有り。
 口語訳をしてみますと、
 中国の唐の時代のことです。趙州従言念(ごんべんに念で一文字)禅師に、専門道場に入りたての修行僧が、お悟りについて、教えてください。」と質問いたしました。そこで、趙州禅師は、「朝ご飯である粥座を終えたのか、それとも、まだですか。」と言います。修行僧は、「朝ご飯である粥座を終えました。」と答えます。趙州禅師は、「朝ご飯を食べ終えたのであれば、持鉢つまり、食器を洗っておきなさい。」といいます。その言葉を聞いて、その修行僧は、悟るところがあったとと言うのであります。
 これは、よくある日常茶飯の出来事が、そのまま語られています。お悟りというのは、難解で、得難いものと思い込んでしまいますが、実はこんなに簡単なところにあったのかと気づくのであります。
 朝起きましたら、朝ご飯をいただくことはごくあたりまえのことでありますが、近頃では、これができなくなってきているようであります。
 朝のでかけるぎりぎりの時間まで寝ていて、朝ご飯を食べる時間のないのは、本人の精神的な余裕のなさから来るもので、自覚が生まれて来ると、自然に食べることができます。小学生や中学生で、朝ご飯抜きをしている子供達が増加しているそうであります。親御さんのご事情により、お子さんが朝食をとることができないのでありましょう。ご飯は炊けていないし、お汁はできていないし、おかずもありません。これでは、朝ご飯は食べられるはずがありません。
 教育の一番は、食育と言われます。もう、これでは、家庭教育がなされていないと言っても言い過ぎではありません。朝ご飯をいただくことの大切さを自覚しておきたいものであります。
 また、流し台に、堆く汚れた食器類が置かれている光景や、食卓に使った食器類が無造作におかれている光景を目にされたことは、ございませんか。しんどいことや、面倒くさいことを後回しにしてしまいがちです。ご飯を食べ終わったら、後片付けをして、使った食器をきれいに洗って、次の準備をするのが大切でありましょう。
 ましてや、朝ご飯の時に、昨晩の使い汚した食器が、お膳や流し台に置き放しであれば、朝ご飯の準備ができるはずがありません。もちろん、食事もできません。
 食事と食器を洗うことは、不即不離の関係になると申せましょう。今さら申すまでもありませんが、日常生活を大切にすること、つまり、凡事を徹底することにあると思います。



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