●入鄽垂手
32.平成21年3月20日(金) 春彼岸会の一席
演題「入鄽垂手《 住職(朊部潤承)
歳のせいか、年末から年始にかけて、寒さが身に応えました。社会情勢に隙間風が容赦なく吹き荒んでいるからでしょうか。百年に一度の状況下にありますが、皆様におかれましては、如何お過ごしでしょうか。このような時こそ心静かに、仏様やご先祖に向き合ってみようではありませんか。もとをただせば、アメリカのサブプライムローンに端を発し、株価の暴落・販売上振・収支の赤字への転落・派遣切り・真面目に勤めあげてきた正社員までが、その憂き目に遭う時節となってきました。アメリカ追従型の経済政策は、良い時は良いが、悪くなると忽ちこのようなことになってしまいます。アメリカがクシャミをすると、日本では風邪をひくと言う具合であります。
今、日本企業が試されているのではないかと思うのであります。赤字・負債・倒産・人員整理と呼ばれる上況の真只中でさえ、堅実に運営されているところが少なからずあります。これこそ誇れる日本企業と言わざるを得ません。会社を大切にし、株主を大切にし、従業員を大切にし、そして、何よりもお客様を大切にする。どれ一つ欠けましても、うまくいかなくなっていくことでしょう。「世の中はカゴにのる人かつぐ人そのまたわらじをつくる人《世の中は、この世に存在するすべてのもので構成しております。そして、それぞれの持ち分があり、それぞれに役割を課せられています。皆がカゴに乗る人になってしまいましたら、誰がカゴをかつぐのでしょうか。また、カゴをかつぐ人のわらじを誰がつくるのでしょうか。それぞれが分担しているからこそ、世の中がなりたっているのであります。
「職業に貴賤の別なし《と言う言葉があるように、生業というものは、すべてが貴いのであります。職業や職種によって人を区別や差別をすることがあってはならないのであります。仕事は、人の命を育む大切な源であります。農耕民族は、田畑を耕作して食糧を生産いたしました。狩猟民族は、狩りをして食糧を手にいたしました。すべての労働が私たちの尊い生命を維持するためのものであります。宗教によっては、労働は卑しいものと蔑んでいる宗派があります。そのような教義が世界中にどんどん拡大し、健全な国までおかしくなってしまうようでは困ります。「働く《とは、はた、つまり「まわり《を楽にするということであります。世間で新しいビジネスと言われているマネーゲームとやらに、現を抜かして、はたを苦しめているようなことから、はたを楽にすることに、オバマ大統領ではありませんがチェンジしなければなりません。
禅宗は、労働を作務と称して尊いものとしております。百丈禅師は『百丈清規』で「普請《という精神を強調しました。それは、分け合うという心で仕事をすることであり、皆平等の立場に立って働くということであります。
イスラエルに最高の文学賞「エルサレム賞(社会の中の個人の自由のためのエルサレム賞)があります。歴代受賞者にバートランド・ラッセルやアーサー・ミラーがいますが、この二月十五日、『ノルウェーの森』『海辺のカフカ』の作者である村上春樹さんに贈られました。
エルサレムで開かれた授賞式の記念講演で、イスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの攻撃に触れ、エスラエルのように軍事力を行使する政策を高い壁に、パレスチナ自治区ガザ地区の非武装市民を壊れやすい卵に例えたうえで、「私は卵の側に立つ《と述べ、軍事力に訴えるやり方を批判しました。
村上春樹さんは、イスラエルにエルサレム賞を受けに行くだけで、イスラエルのガザ攻撃を支持する印象を与え、イスラエル側にとられてしまいますが、欠席して何も言わないより賞を受け話すことを選びました。非常に難しい選択でありましたが、村上春樹さんのお父さんは、僧侶であつたこともあって、第三の道・中道に近づけようと努力していることが講演の中から見てとれます。村上春樹さんのお父さんは、昨年九十歳でなくなりました。毎朝の勤行で、戦場に散った人達のために祈りました。敵であろうと、味方であろうと、区別なく、すべての戦没者のために祈りました。その姿は後光がさして、輝ていたそうです。区別・差別・分別は偏りですから、偏りを少しでも正していくことが、中道を歩む第一歩と思うのであります。
そう言えば、『ビルマの竪琴』と言う竹山道雄さんの小説をご存知でしょうか。
主人公の水島上等兵は、戦局が悪くなり、ビルマから引き揚げなければなりませんが、そのままビルマに留まりました。その留まった理由は、イギリス兵が敵味方区別なく戦没者を葬り、讃美歌を唱和している様子を垣間見たからであります。イギリス兵は、敵の戦死者まで手厚く埋葬し慰霊しているのに、日本兵は、戦友の遺体さえも雨ざらしにして、逃げ延びることばかりに懸命になっていたのであります。水島上等兵は、戦死者の生きて帰れない無念さを思うと、ビルマに留まるほかなかつたのでありましょう。
さて、本日の演題『入鄽垂手』に入ります。『入鄽垂手』というのは、十牛図の第十図で、布袋さんが子供に優しく語りかけています。十牛図、禅の悟りにいたる道筋を十枚の絵で表わしたもので、中国宋代の廓庵禅師によるものが有吊です。ここに出てくる牛はお悟りに、童子は修行者に例えて絵解きがしてあります。第一図 尋牛 もともと居たはずの牛が居なくなり、探そうと志すことを言います。「お悟り《を探しますが、どこにあるのかわからず、途方に暮れた様子であります。
第二図 見跡 牛の足跡を見つけ出すことを言います。足跡とは、経典や語録、公案を意味し、それを繙くことに気づいた様子であります。
第三図 見牛 牛の姿をちらりと見つけることを言います。優れた師匠に出会い、「お悟り《が少しばかり見えてきた様子であります。
第四図 得牛 逃げ出そうとしている牛を力づくで、捕まえようとしていることを言います。何とか「お悟り《の実態を得たものの、「お悟り《にふりまわされ、
いまだ自分のものになっていない様子であります。第五図 牧牛 牛をてなずけて、思うままにあやつられるようになることを言います。「お悟り《を自分のものにするための修行を表し、
まだ「お悟り《と自分が二元対立している様子であります。第六図 騎牛帰家 牛の背中に乗り、家に帰ることを言います。「お悟り《がようやく得られ、「お悟り《と自分が一体化して、世間に戻る様子であります。
第七図 忘牛存人 家に戻り牛のこともすっかり忘れ溶け合っている様子であります。
第八図 人牛俱忘 牛も人も忘れさられ、無の一つに帰ったことを言います。「お悟り《を得た修行者も特別な存在でなく、本来の自然の姿を表わしております。
第九図 返本還源 本来の自然の美しさが現出してくることを言います。「お悟り《とは、人の小賢しい計らいを超えた自然の中にある様子をあらわしております。
第十図 入鄽垂手 「お悟り《を得たものの、世間と隔絶しているようでは小乗と言わざるを得ません。世の中に身を投じ、教えを導き、できることがあれば、
させて頂くことが、何よりの幸せと言うものであります。
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