3.平成13年9月23日(日) 秋季彼岸会の一席 演題「一無位の真人」 住職(服部潤承) | |
お盆が終ったと思いますと、もう秋のお彼岸になってしまいました。月日の経つのは早いものです。刻一刻と減っていく自分の持ち時間を、どのように大切につかっていったらよいのでしょうか。
この間、アメリカで同時多発テロ事件が勃発しました。テロに巻き込まれ、尊い命を失われました犠牲者のご冥福をお祈りいたします。
あのニューヨークの巨大な貿易センタービルに、ハイジャックされた旅客機が激突し、炎上、一時間後にはノッポビルが、地上に崩れ落ちてしまいました。最新の技術力で、構築された巨塔が、アッという間に瓦礫とかしてしまいました。私達は、近代文明・近代技術やハイテクを神様のように崇拝し、信じてまいりました。これが、全知全能であると思い込み、これに頼りきってしまいました。人間に欲や欲望があるから、文化が向上し、技術が進化し、近代化を構築できたのであると、煩悩を肯定している人がいます。それも一理ありますが、煩悩を肯定した挙句、このような悲惨な末路を辿ってしまったことも確かなことであると思います。
向上心は大切にしたいものですが、人間の技術力などとるにたらないものです。煩悩・本能・欲望にまかせて、競い合っている間は、あのような惨劇が発生し続けるのではないでしょうか。
一方、あの残酷なテロ犯行グループが宗教団体であれば、これはもうカルト集団と言わざるをえません。
本来、宗教は世界平和をを願い、人々の心の平安を願い、そしてその実現に努力するものであります。たとえ、その宗教団体の神様の意志(詭弁に他ならないと思います。)であっても、テロ行為は宗教行為とは絶対に言えません。それどころか、人々を悲しみや不安に落とし入れ、憎しみや恨みを増幅させ、未来に夢や希望を持てない苦しみを強いることになります。
禅語に、「放下著」と言う言葉があります。つまり、「執着を離れよ」と言う意味です。私達は、色々なものに執着してしまいます。財産やお金に執着する人・名誉や地位・学歴に執着する人・グルメやお酒やギャンブルに執着する人・異性に執着する人・そして、宗教に執着する人です。執着する人の共通点は、
一、冷静に、正しく判断できない。
二、周囲が見えない。
三、正しい助言や忠告が聞けない。
四、何が大切なのかがわからない。
等であります。
宗教に執着すると、極端な場合、今回のようなテロリストにもなってしまうのであります。宗教者として、一番大切で、常に要求される「寛容と協調」が欠けてしまうからです。
古い川柳に、「宝船日本からも一人乗り」とあります。一人とは、日本の恵比須さんのことです。大黒さん・毘沙門さん・弁天さんはインドから、布袋さん・寿老人・福禄寿は中国からやってきました福の神であります。ただし、布袋さんは、中国の禅僧で、キリスト教のサンタのおじさんのような方で、実在人物です。旧麻田藩家老職阿澄昌夫家よりご寄贈いただき、佛日寺にも奉安しております。七福神のように、一隻の船に乗り合わせて、主義主張は違っていても、仲よくできましたら、どんなによいことかわかりません。
前置きが、ずいぶん長くなりましたが、本日の演題は、「一無位の真人」でございます。
臨済録の上堂 三に、
上堂。云く、赤肉団上に一無位の真人有り。常に汝等諸人の面門より出入りす。未だ証拠せざる者は看よ看よ。
「臨済義玄禅師が法堂の須弥壇に上がって、おっしゃった。我々の肉体に、唯一の位の無い真実の人がいる。いつも、皆さまの感覚器官より出たり、入ったりしている。まだ、気づいていない者は、気づけ、気づけ。」
臨済宗祖臨済義玄禅師は、「私達の身体に、一つの尊い仏様が宿っています。しかし、その仏様が宿っていることに気付いていません。早く気付きなさい。」と、おっしゃっています。
私達は、分別・二分法の世間の常識で・物事を相対的に見てしまいます。仏様に対しても、そのように見てしまいがちです。いたらぬ自分に対峙して、絶対的で崇高・尊いものとして仏様に向かいあってしまいます。そうすると、仏様は、遠い存在・近づきがたい存在に思い違いをしてしまいます。
決してそうではありません。禅定を修し、智恵をみがき、分別心を離れますと、仏様は近い存在に、仏様は自分の中に存在し、そして、自分自身が仏様そものであることに気付きます。
仏教国では人と人とが挨拶をするとき、合掌いたします。それは人の内なる仏様と仏様が挨拶するのですから、合掌するのであります。
私達一人一人に内在する尊き一無位の真人をこのお彼岸に六波羅密を行じ、感得したいものであります。
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