●外道門仏
29.平成20年8月2日(土) 施餓鬼会の一席
演題「外道門仏」 住職(服部潤承)
暑い日が続いております。灼熱地獄と言うのは、このことを言うのでしょうか。
中国の四川省で大地震がありました直後に日本でも、岩手宮城内陸地震がありました。死者が一万人以上と言うことで、ご冥福をお祈り申し上げ、後生、つまり死後の幸せを願ってやまないのであります。地震・雷・火事・親父と言えば、恐いものの代表でありました。とりわけ、地震は予告なしで起こります。近頃、「緊急地震速報」と言うのがあり、テレビ・ラジオで流すようですが、どうも間に合わないようです。それも震源地に近いところほど間に合わないそうです。阪神淡路大震災が十三年前にありました。この前にあったので、暫く起こらないだろうと、思っている人は有りませんか。確実に地震はやってまいります。ただ、何時かわからないだけなのであります。
この世に安住できないことを燃え盛る家に例えて、火宅無常の世の中と申します。一度、無常の風が吹きますと、例え丈夫の家も一たまりもありません。神仏を敬い、先祖を供養し、信仰をもちつづけ、清く正しく麗しく生きていましても、災難に遭うことは往々にしてあります。大自然の猛威の前では、私達は無力に等しいのであります。
真面目だけが取り柄で、こつこつと手を抜かず一生懸命仕事をし、人一倍、子煩悩で家庭を大事にし、他人のことでも自分のことのように思う人に限って、予期せぬ災難に出会い、不幸の淵に沈んでいる様子を見ますと、何と世の中は不公平なことかと嘆かざるを得ません。
しかし、これは人間社会のもの差しで測るからこそ不公平に思ってしまうのであります。神様・仏様の世界から見ますと、不公平なことは決してありません。百年単位で見てみますと、皆いい時もあれば、悪い時もあったのです。巡り合わせで、今、そうなっているだけであります。何処も彼処もプラスマイナス〇であります。或る一瞬だけをとらえて、幸せ・不幸せなどときめつけてしまうのは、不幸なことであります。今は幸せそうに見えても、そのうち不幸せがやって来るかもしれません。逆に、今は不幸せそうに見えても、そのうち幸せがやって来るに違いありません。まさしく、あざなえる縄のごとしなのであります。
火宅無常の世の中をサラッと流して、粋に生きていくのが、幸せの秘訣かもしれません。「江戸っ子は、宵越しの金は持たぬ」と申します。執着してはならないという意味でありましょう。気風よく、生きることを言っているのであります。収入は目減りするは、物価は上がるはで、非常に住みにくい世の中ではありますが、爽やかで、美しく、癖もなく、あなたがそこに居るだけで、周囲の雰囲気が良くなる。あなたが来て、その場が明るくなる。安心できる等と囁かれるには、私達の言動の出どころである「心の作用」によるところが大であります。
この心をどうしたらよいのでしょうか。フイトネスに通っても、心は相変わらずメタボリックシンドロームです。心は脂肪でドロドロしています。心は損得勘定が先に立ち、得する方に靡きます。どこかの国の首相が就任直後に、貧乏籤を引いたと発言して、顰蹙を買いました。難問が山積しているため、ついつい口から出たのでしょう。難問に立ち向かうからこそ、国民の支持率が上がり、応援もあると言うものでありましょう。この心の贅肉をすっかり落として、スリムに、そして、粋に生きたいものであります。
本日は、お施餓鬼であります。宗門では、スウシと申します。「施食」と書き、食を施すと言うことで、餓鬼に食を施します。本堂の出たところに、施餓鬼壇を設け、そこに、餓鬼を招いて、水やご飯・野菜・果物等を施しております。施すことは大変難しいことであります。頂くことは、だれしもが好むことですが、さしだすとなると好みません。苦労して手に入れたものを、どうしてやれようか。もらうものは何でももらうけれども、一文たりとも出さない。自分のものは、自分のもの。人のものも自分のもの。独り占めして、決して上げないのが今日的現在であります。所得欲に塗れているのです。そんなにたくさん独り占めしても仕方がないのに、他に分ければ喜ばれるのに、つい取り込んでしまう。他が施しをしょうとすると、自分もしなければなりませんので、人にやめさせようとします。
がつがつと取り込むことばかりに、心を悩まされているその心が餓鬼道なのであります。私達は、人間の姿をしていますが、心は餓鬼なのかもしれません。その餓鬼の心を人の心に、人の心を仏の心に、変えて行く大切な仏事がお施餓鬼ではないかと思っております。
餓鬼の心は、取り込むばかり・欲ばかりです。人の心は、損得勘定が働き、施すのは少しだけにしておこうとする分別心であります。仏の心は施しても施し足らぬは施す心。そこには、分別心は微塵もありません。施すと言うと、すぐにお金が頭に浮かびます。「お金を出せ」と申しているのではありません。私のできることをさせて頂くと言うことを意味しているのであります。
私には、お金も地位も無いけれども、笑顔は誰にも負けないと言う人は、どこに行っても笑顔を振り撒けば、よいのであります。
私は、三度の飯より歌が大好きだと言う人は、機会があるたびに、歌を聞かせてあげれば、よいのであります。
私どもの檀家さんに園芸をされている方がおられまして、いつも機会があるたびに、採りたての野菜を頂いております。精根込められた瑞々しい野菜ですから、おいしくて、ありがたく頂いております。施しと言うのは、心がこもっていて、温かいものでなければなりません。決して量ではなく、質なのであります。中味と言っても差し支えがないと思います。
昨年の十一月十一日、大津市で第二十七回全国豊かな海づくり大会で、天皇陛下は外来魚ブルーギルが異常繁殖し、琵琶湖の鮎や諸子等の漁獲量が大きく減ったことに触れ、「ブルーギルは五十年近く前、私が米国より持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈したものであり、当初食用魚としての期待が大きく養殖が開始されましたが、今このような結果になったことに心を痛めています。」と一般水域の生態系を壊したことについて残念に思うと述べられ、挨拶の最後に、「永い時を経て、琵琶湖に適応して生息している生物は、皆かけがえのない存在です。かつて琵琶湖にいたニッポンバラタゴが絶滅してしまつたようなことが二度と起こらないように、琵琶湖の生物を注意深く見守っていくことが大切と思います。」と述べられました
現在、琵琶湖に生息する外来魚は約一六〇トン、うち大半がブルーギルと言われています。このように一般水域に入ったブルーギルが生態系を壊し、在来種を絶滅に追いやったのであります。
今の日本全体が、このような様相であります。日本固有の世界に誇れる文化が、安直な異文化に今、滅ぼされようとしております。日本人が日本人を殺し、仲間が仲間を殺し、親が子を殺し、子が親を、血を分けた家族が殺し合い、自分が自分を殺す。このような悲劇、何と馬鹿げたことではありませんか。今や、日本は、ブルーギルやブラックバスのような外来種に席巻された感がします。
日本には、古代から「神道」と言って「かんながらの道」があります。神様を敬い、祖先を尊び、祭祀を行います。それを支えるのが、儒教であり仏教であります。儒教は、思いやりの「仁」と、筋を通す「礼」を大切にいたします。仏教は、慈悲を実践することを説いてまいりました。駕籠に神道を乗せ、両端を儒教と仏教が担いで来たのであります。
今、私が身に着けている衣装を見て頂きますと、わかりますように、外側に懸けているのが袈裟で、仏教徒の象徴となるものです。その次の着物は、衣と言いますが、儒衣と言って、儒教の着物で孔子や孟子が着ているものと同じです。次に衣の内側に白い着物を着ています。白衣と言って、神道を表しています。よく神官が着用している着物であります。
このように、日本の文化は長い年月を経て築き上げられた世界に冠たるものであります。ところが、いつの間にか、悪貨が良貨を駆逐するように、琵琶湖にブルーギルやブラックバスが繁殖するように、異文化が支配し、それに伴い不協和音が生じているのでありましょう。さて、最後に本日の演題『外道問仏』に入ります。
無門関第三十二則に、「世尊、因みに外道問う、“有言を問わず、無言を問わず。世尊拠座す。”」とあります。
わかりやすく解説しますと、或る時、異教徒の修行者がお釈迦さまに尋ねました。真理を言葉を使って示すと、真理から遠くかけ離れたものになってしまいます。真理を言葉を使うでもなく、使わないでもなく私に教えて下さいと。すると、お釈迦さまは、真理を示すために、ただただ坐り、無の境地に入られました。つまり、お釈迦さまは、身をもって、禅定に入っている姿を示されました。そこには、小賢しい言葉をさしはさむ隙さえ無く、万物に溶け合い、自然と融合した福徳円満なお釈迦さまを見て、異教徒の修行者は悟りを開いたのであります。
しかし、先ほどのお施餓鬼の縁起の中に、出てきました阿難尊者は、お釈迦さまの言葉をたくさん聞いていましたが、言葉の奥底にある真理や言葉を超えた宇宙の真理を聞きのがしていました。ところが、お釈迦さまが亡くなった後、真理の存在に気づきました。そして、十大弟子の一人として、多聞第一とされたのであります。
最後に、お施餓鬼の縁起を紹介して終りたいと思います。
阿難尊者は、或る日、森の中で一人、静かに坐禅をしていました。すると、餓鬼が現れます。そして、「お前は、三日後、死ぬ。そして、餓鬼道に落ちるだろう。」と言いました。そこで、阿難尊者は、お釈迦さまに相談します。
お釈迦さまは、「新鮮な山海の珍味を供え、懇ろに、お施餓鬼を務めなさい。その施餓鬼によって、すべての餓鬼は救われ、阿難尊者は長生きができ、お悟りも開けるだろう。」と、おっしゃつた。
阿難尊者は、早速、施餓鬼をつとめました。すると、多くの餓鬼は救われ、阿難尊者の命は助かり、最も長生きし、お悟りも開けたのであります。
皆様も、本日のお施餓鬼にお参りになりましたので、間違いなく長生きできますし、お悟りも開けてくるでしょう。
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