●智不是道
28.平成20年3月20日(水) 春彼岸会の一席
演題「智不是道」 住職(服部潤承)
今年は、例年になく寒い日が続いていましたが、何時の間にか春がやって来ました。
「冬来たりなば、春遠からじ」と申します。 冬が来れば、その次に来るのが春に決まっています。寒い冬は、春がそこまで来ている証拠であります。
「笑う門には、福来る」笑い声の聞こえる家庭は、家族円満の証拠であります。
お正月に、「福笑い」をよく致しましたが、皆さんのご家庭では、されましたでしょうか。紙に象ったお多福顔に、眉・目・鼻・口・耳を目隠しして、配置していき、不揃いさを大笑いする遊びであります。この福笑いにも意味があるようです。お多福顔全体を見ますと、おでこは広く、下膨れになっています。非常にふくよかですし、おでこが広いのは、智慧の宝庫を示します。智恵は知識のことではありません。永年の修行によって、培われた無分別智のことであります。
目は切れ長です。坐禅の時の半眼であります。内側と外側を同時に見られる目でもありますし、視野を広く保つ目でもあります。また偏らないで見る目でもあります。
鼻は、極めて小さいです。一般的に団子鼻と言われていますが、鼻高々は、有頂天になって、まわりの人達は鼻持ちならないのであります。我執を離れ、自我を捨てることを言っているのであります。
口は、小さなおちょぼ口であります。お淑やかさや口数が少ないだけを言っているのではありません。八正道の中に、『正語』と言うのがあります。正しく真理を語ることです。偏ったり、間違ったり、誇大したり、矮小したりしないことであります。
最後に大きな耳で、福耳とも申します。しっかりと聞いて聞き逃さないと言うことだけではありません。真理に耳を傾けることで、世の中には、雑音がたくさんありますが、その中には聞き逃してはならないものがあります。昨年はKYと言う言葉が流行しました。空気が読めないのKと、読めないのYでKYと言ったそうです。つまり、機微を聞きとどめることでありましょう。
この五つの徳が備わっているのを五徳の美人と申します。美人と言うと、顔やスタイルが美しい女性を連想いたしますが、外観だけにとらわれると間違いと言わざるを得ません。五つの徳が、内側からにじみ出る美しさを五徳の美人と申し、女性だけとは限らないのであります。
夕張市が破綻して一年になりますが、その近くの旭川市にある旭山動物園には、年間三百万人以上の入園者があり、年々増加してきているそうです。
その旭山動物園の副園長の坂東元さんが、『更生保護』の一月号(第五十九巻第一号)に、「今は未来のために」と言うテーマで、次のような内容が述べられています。
自分が飼っているネコが陽だまりのソファーの上で寝ている。とても微笑ましく感じられる。
でも動物園で、ライオンやヒョウが寝ていると「つまらない」から石を投げ入れる。傘でつつく。
この差はどこから生まれるのだろう。そこに命としはて存在している動物がつまらなく感じられてしまう。動物園は何のためにあるのだろうか。
僕たちヒトは、知らず知らずに自分たちの生活や価値観を基準に物事を見てしまう。これは価値がある。これは価値がない。これはかわいい。これはかわいくない---。
常に相対的に比較することで物事も自分の存在も確認する。
動物園で飼育している動物はほとんどが野生種の動物たちです。彼らは、ヒトのように相対的な基準では生きていない生き物です。自分を自慢することも、羨むこともしない。
そんな彼らを、うつろいやすい価値観の中にいるヒトにどのように見てもらえばいいのだろう。それが旭山動物園再生の原点。云々とあります。
まとめますと、自分のネコは、微笑ましいですが、動物園のライオンやヒョウは、石を投げ入れられ、傘で突かれてしまいます。この差は、自分の生活や価値観を基準に分別しているのです。「価値があるとか、ないとか。」「かわいいとか、かわいくないとか。」と言うように、相対的に比較するのがヒトの価値観です。それは、うつろいやすく、とるにたらない価値観と言えましょう。「ライオン」や「ヒョウ」は、ヒトのように相対的な基準では生きていません。だから、自慢することも、羨むこともしないのです。つまり、他と比較したり、分別したりしないと言うことでありましょう。
昨年の十二月二十二日、山本孝史参議院議員が亡くなりました。行年五十九歳。死因は胸腺ガンです。平成十八年五月二十二日、参議院本会議で、ガン対策基本法案の成立を訴え、その後制定されました。ガン患者の直面している問題から不安を取り除く法律が制定されたのは、山本議員の病気を押してのご努力のたまものです。与野党を超えての全員賛成でした。政党や派閥を超え、党利党略を超えたものでありました。聖徳太子は、十七条憲法で、「和を以て貴しとなす」と言っていますように、ここ一番と言うときには、垣根を越え、こだわりや私利・私欲を捨てて大同一致しなければなりません。
一月二十三日に、元厚生労働大臣の尾辻秀久議員が参議院本会議場で、山本孝史議員の功績をたたえて、「すべての人の魂を揺さぶった。今、その光景を思い浮かべ、万感胸に迫るものがある。あなたは社会保障の良心だった。---先生、今日は、外は雪です。寒くありませんか。」と追悼演説を涙ながらにしていたそうです。対立から協調へ一歩でも前進すれば、美しい日本が実現できるのではありませんか。二元対立は格差を生みます。他と比較して、優れているから優越感にしたってみたり、他と比較して、劣っているから劣等感に苛まれたりするような社会・格差社会が今、正に現実の社会です。差別化を諮って優劣を競っている間は、美しい日本はやってまいりません。どんどん国も人の心も崩壊していくに違いありません。荒れるにまかせるしかないのでしょうか。
さて、本日の本題の「智不是道」に入ります。無門関の三十四則に、「南泉云く、心是れ仏にあらず、智是れ道にあらず。」とあります。
南泉普願禅師は言います。「心は仏ではない。智は道ではない。」と。
以前、法話で「即心即仏」・「平常心是道」の演題で話したことがありましたが、これと、正反対のことを今回、申しております。今まで聴いて頂いる方にとっては、矛盾を感じられているのではありませんでしょうか。それは『言葉』と言うフィルターを通しての理解・納得ですから、矛盾と感じられるのは、当然のことであります。
普段、人は言葉でコミュニケーションをします。言葉でわかり合います。言葉で理解いたします。他の生き物は、どうか知りませんが、声はあっても言葉が無いように思われます。しかし、言葉がなくても、心を通じ合わせることができます。夫婦・親子・子弟・親友の関係では、それが言えます。また、動植物にも言えます。例えば、野良犬を拾って、愛情豊かに育てますと、いつの間にか忠犬になってまいります。
ところが、私たちは、いつの間にか言葉に頼るようになってしまいました。人から声を掛けられなかったら、寂しくなったり、孤独感に陥ったりします。また、書いたものが無かったりすると不安になり、書いたものだけを信用してしまうこともあります。
言葉には、話しことばと書きことばがあって、人間だけが持つ特技と言えましょう。しかし、言葉は、符号として人間が勝手に作り出したものです。したがって、時代によって、意味が変遷しますし、国や地域によって違います。また、これからも変わっていくに違いありません。「心」「仏」「智」「道」と言う文字は、単なる符号にすぎません。何の意味もない仮の符号に、「ああでもない・こうでもない」「ああだ・こうだ」と言って、とらわれ、迷ってしまいます。例えば、「かわいい」と言われて喜び、「みにくい」と言われて腹を立ててしまいます。人は言葉と言う符号にとらわれて、一喜一憂してしまうのであります。一度、言葉で表現すると、今度は、その言葉の中に真実があるものと思い込んでしまい、人はその言葉に執着します。
南泉禅師は、「言葉に執着してはならない。真理は言葉の中にはない。」といっているのであります。つまり、真理は言葉で言い表わせないのであります。だから、禅は不立文字(文字を立てない。言葉で言い表せない)と言われる所以であります。いくら表現巧みな詩人でも、お砂糖の甘さを言葉で表現しょうとしても、その甘さを伝えられません。舐めてこそ、本当の甘さがわかるものでありましょう。言葉の限界を充分、知った上で、行間を読む。言い換えれば、言葉で表現できない部分を読み取っていく。さらには、言葉のフィルターを通さないで、永年の実体験・実経験から直接得た揺るぎない、妙なるものに接することができれば、幸いに存じます。
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