●秋はもみじ葉

27.平成19年9月23日(水) 秋彼岸会の一席
 演題「秋はもみじ葉」  住職(服部潤承)


 
 「形見とて何か残さん春は花山ほととぎす秋はもみじ葉」

と詠われている良寛さんの和歌についてお話し致します。
 現在、生きているわれわれを木の葉に例え、われわれ生きているものからは目にみえませんが、地中深く日々生きつづけ、枝葉を力強く支えている何畳とも量りしれない根を先祖と申し上げ、養分を絶やさないことが、供養だと言われます。そして、絶やさないからこそ枝葉が伸び、繁茂するのであります。所以に根と枝葉は切っても切り離すことのできないものなのであります。
 この木の葉を人生に例え、四季が移り変わっていく様子を考えてみましょう。葉を落とした木の枝は春になりますと芽吹き始めます。人生で言うと誕生です。そして、目に爽やかな新緑の頃となります。「目に青葉山ほととぎす云々」すべてが新鮮です。人生で言うと幼年期・少年期であります。夏、八月を葉月と申し、木の葉は青々と茂り太陽の光を思う存分、吸収し、絶頂期を迎えます。人生で言うと青年期と申しましょう。しかし、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」と藤原敏行が詠っているように、周囲のすべてが落ちつきはらって、風の音にも静かさを感じる秋になりますと、木々の葉も落ち着き、色づく頃となります。紅葉狩りと申しまして名所旧蹟に足を踏み入れます。私どもの親戚に氷上郡青垣町にあります臨済宗高源寺がございます。全山が天目楓と申しまして、中国から移植された紅葉が有名であります。秋にもなりますと、観光バスで団体さんがたくさんいらっしゃるそうです。この色づいた錦織を人々が美しい美しいと賞賛されております。人生に例えますと壮年期・老年期と言えましょう。紅葉と同じように人々から美しい深みがある、円熟している言われる人生を迎えるのであります。論語の為政編に孔子が生涯を振り返って五十にして天命を知る。つまり五十歳で天から与えられた自分の使命を知ったとおっしゃっています。この世に誕生したことの意味。この世に誕生したのはこの世で果たさなければならない役目を担ってやってきたのであります。この使命に気付くのが五十歳であります。六十にして耳順う。つまり、六十歳で人の話が素直に聞くことができたとおっしゃつています。我欲が強いとなかなか人の話に耳を傾けることができません。むしろ、ケチをつけたり、文句を言ったりして、人の話を妨害したりすることを平気でするものであります。人の話が素直に聞けるようになるには、相当な心の余裕が必要なのかもしれません。七十にして己の欲するところに従って踰を越えず。つまり、七十歳で自分の思い通りに行動して、その行動が決して道をはずれることがなかったとおっしゃっています。日頃の規則正しい生活が自分の行動を自然にコントロールすると言う意味で、責任ある行動というのは実に難しいものです。人々から信頼され、素晴らしい・立派だと賞賛される人を言うのでしょう。このように壮年期・老年期は青年期とは違った美しさを醸しだされてくるのであります。明鏡止水と言うことばがございますが、静かで落ち着いた心境のことであります。青年期が朝日であれば、壮年期・老年期は夕日です。温かみを含んだ優しさ・柔らかさや厚みを感じさせられるものであります。花の蕾を少年期・青年期であれば、見事に花を咲かせ、実をつけるのが壮年期・老年期でありましょう。
 しかし、自然の摂理と言うものでしょうか。秋は冬をどうしても迎えなければならないのであります。紅葉も枝から離れ、地に帰っていく時が、やってまいります。太陽が山向こうに沈む時がやってまいります。満開の花が花びらを散らす時がやってまいります。
 しかし、冬を迎えたからと言って、これで終わりでしょうか。紅葉が落葉したからと言って、それで終わりでしょうか。夕日が沈んでしまったからと言って、それで終わりでしょうか。冬が来れば、その後には春がやって来る、ごく当たり前のことです。紅葉が落葉すると、その後には新芽が顔をのぞかせているのであります。夕日が沈みますと、暫くすると朝がやってきて朝日が昇るのであります。花びらが散ると種を生み、その種が地に戻り芽を出すものであります。お釈迦さまは二五〇〇年前に「輪廻転生」言う言葉を残しておられます。つまり、この世のあらゆるものは、生まれ変わるものであるとおっしゃったのであります。この大自然の法則「輪廻転生」を早く悟って、一瞬一瞬を大切にし、思いっきり真正直に生きることを私達にお諭しいただいているのであります。終わりでなく、始まりである。終わりなどないのであります。命と言うものは永遠に続くものであります。これを無量寿・無量光、つまり永遠の命と申しまして、宗門では「オミトフ」とお唱えして称えているわけであります。
 位牌の裏側に行年何歳と記されております。この行年の意味を亡くなった歳と考える人がありますが、行年は、この世での修行年数を示しているのであります。つまり、この世に生きている間を仏道修行と考えているのであります。修行期間中でありますから、当然苦しいことが多いのであります。「艱難辛苦汝を玉にする」と申します。艱難辛苦は自分に与えられた修行なのだと解釈しなければなりません。修行期間中にしんどいから・苦しいからと言って逃げてしまっていては、修行にならないのであります。自分の人生を修行期間と考え、苦しい人生ほど自分を厳しく鍛えているのであると思い、苦しければ苦しいほど自分を仏さまに近づけて頂いているのであります。苦労は買ってまでするものであると昔はよく言われた者であります。実はここに意味があるわけです。
 修行も色々あります。お釈迦さまは、断食・絶食・滝に打たれたり、水をかぶったり、山野を駆け巡ったり、鞭で体を叩いたり、不眠不休をしたり、針の山に寝たり、呼吸を止めたりするような荒行を戒めていらっしゃいます。極端は中道の教えに外れるからであります。荒行をしたから立派だと言うわけではありません。病弱な人や体の弱い人、体力のない人、女性、お年寄りは、どうなるのでしょうか。誰でも、どこでもできる修行を次にお話し致しましょう。

 布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの修行です。

  布施とは、取り込むことを止めて与えましょう。心や力や物を人のため、社会のため、役立てましょう。

  持戒とは、人や社会に迷惑を掛けないように約束やルールを守りましょう。

  忍辱とは、苦しさや腹ただしさを我慢して、心の強さ優しさを養いましょう。

  精進とは、自分の持ち場で力を惜しまず、手を抜かず一生懸命頑張りましょう。

  禅定とは、心静かに体を整え、呼吸を整え、心を整えましょう。

  智恵とは、知識偏重にならないように、知慧を身につけ物事を正しく見、聞きして考えましょう。

 この六波羅蜜の六つの修行を修めますと、「入船の逆風は出船の順風」となるであります。船が港に入るとき、港から船に向かって、風が吹いてまいりますと、なかなか向かい風のために、船は前に進んでくれません。ところが、港から海に出て行くときには、その逆で追い風でありますから舟は滑らかに進んでいくのであります。逆風こそが私達にあたえられた修行だと思って毎日をすごしますと、何れは逆風が順風に替わってまいるわけであります。



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