●芭蕉しゅ杖

25.平成19年8月4日(土) 施餓鬼会の一席
 演題「芭蕉しゅ杖」  住職(服部潤承)


 
 
 最近、頓(とみ)に世情不安を感じる不可解な事件が連続して起きております。嘗て、相対性理論で有名な物理学者、アインシュタイン博士が、来日して日本の印象を述べました。

  「日本は非常に美しい国である。そして、そこに住んでいる日本人は礼儀正しく、優しく、思いやりのある心の豊かな国民である。」

と、褒め称えたそうであります。そう言えば、昔懐かしい幻灯が、戦前の様子をテレビで深夜に放映していることがあります。服装、特に和服を男女ともにきちんと着用しています。歩き方も颯爽(さっそう)と列を整えて歩いています。バスや電車の乗り降りの際にも、見も知らぬ人同士が会釈をしていました。日常の生活も、非常に質素で、まさしく質実剛健という言葉があたります。
 しかし、このような美しい日本・外国からうらやましがられる日本を、精神的な面からと武力とで攻め込んできたのであります。沖縄では玉砕を強いられ、広島・長崎では原爆投下、日本中、焼夷弾で焼け野原になってしまいました。天皇陛下の玉音放送を拝聴するや、そこから、異国の占領政策が始まりました。家庭崩壊・学校崩壊・不正・偽装・汚職・収賄・贈賄談合・「なんで儲けたらいけないのでしょう」等、口惜(くや)しいかな戦後の占領政策は大成功を収めたのであります。
 それは、農耕民族に狩猟民族の精神を植え付けられたのであります。嘗て、先祖代々受け継がれてきた土地を大切にし、土地の神さまである氏神を祀り、豊年満作を祈ってまいりました。土地と同じように家を大切にし、家族皆で力を合わせて農作業に勤(いそ)しみました。そのリーダーがお年寄りだったのであります。もちろん、家族だけでは出来ないことがあります。村落を挙げての共同作業があります。道の整備・治水・祭り等で、いつも仲良く、協力していかなければなりません。自分勝手なことは決して許されないのであります。
 農作業ひとつ取り上げても言えます。土地に這(は)い蹲(つくば)って、几帳面に丁寧に根気強く作業をしなければなりません。田植えでは、どろ田に足をとられながら腰を曲げて、四角四面に計ったように苗を植えていきます。草取りは、一年で一番暑い時期に田植えと同じく、腰を曲げて、一つ一つ苗の根元に手をやり、草を取りながら歩を進めます。なんと根気のいる仕事でありましょうか。稲刈りは、鎌で腰を曲げ成長した稲を刈っては、束にしていきます。それを天日に干(ほ)し、いよいよ脱穀です。なんと手間のかかることでしょうか。それで米という字は、八十八と書くのであります。
 手を抜くと収穫高が減ります。収穫が減りますと命にかかわり、生きていけなくなるのです。家族に病人や不幸が出ますと、農作業にすぐに影響が表れてまいります。つまり、人手が足らなくなるからです。だから、長生きをしなければなりませんし、健康に注意をしなければなりません。家族のだれかに、何かが起きれば、たちまち家族全体が困(こま)ってしまうわけであります。
 そこに、家内安全・無病息災・豊年満作を祈る信心が起きるのであります。家族一家が住む大地・自然が穏やかでありますように。大地に恵みがもたらせますようにと、氏神様に祈りを捧げます。夏祭りには、暑い夏を越すために、「夏越(なごし)の祓(はら)い」を受け、身を清め、台風や大雨等の自然災害から逃(のが)れ、秋の収穫が得られますように祈ります。お盆には、肉眼では見えませんが、血・肉を分けて下さったご両親をはじめとする先祖代々を招いてこの世に誕生せしめ、日々健康で農作業に勤(いそ)しむことが出来る感謝の誠心(きもち)を、畑で採れました新鮮な野菜や果物の数々にかえて、供えるのであります。実りの秋になりますと収穫です。丹精込めた稲を刈り取ります。災害も少なく収穫に無事、漕(こ)ぎ着けることが出来たのは、もちろん家族のおかげであります。ところがそれだけではありません。太陽の光と熱、雨、肥沃な大地等の天地の恵みがあったればこそであります。この恵みに感謝し、収穫を喜ぶのが秋祭りでありました。
 日本は島国ですから、土地に這(は)い蹲(つくば)って、生活を糧を得たのであります。陸続きでしたら、よいところがあればすぐに移ることが出来ますが、島国では土地に限りがあります。だから家族が一丸となって一所懸命頑張ったのであります。一所と言うのは「一ヶ所」と書いたのは、ここに意味があります。逃げるに逃げられなかったからこそ、隣り近所との争いを避け、仲良くしたのであります。変わりたくても変われなかったからこそ、神仏に祈りを捧げるしかなかったのであります。
 嘗ての日本人は、こうであったからこそ、アインシュタイン博士が良い評価を下したのでありましょう。しかし、今の日本人はすっかり変わってしまいました。戦後、アメリカの肝いりでそうなったのでしょうか。狩猟民族の考え方なのでしょうか。獲物を探し、喰いついたら離しません。恥も外聞もかなぐり捨てて、取れるだけ取ろうとします。そして、取れるものが無くなったら、さっさと別のよい所に移って行きます。まさしく、ハイエナ・禿(はげ)鷹(たか)・ピラニアに、日本人が成り下がったのではないかと思ってしまいます。
 最近、アメリカ系投資ファンドの投資家が日本にやって来ました。その中で言った言葉が印象的に残っています。日本の企業は、企業防衛と称し、市場開放をしないで守りに入って、外国投資家が日本企業を買収できないことを感情的になって、「日本の市場を教育しに来た。」と嘯(うそぶ)いていました。これは、ハイエナ・禿(はげ)鷹(たか)・ピラニアの発想で、日本企業を喰いものにすることを前提とした発言に違いありません。
 東京都知事の石原慎太郎さんではありませんが、「NO」とはっきり言わなければなりませんし、日本の良き伝統文化をもう一度見直さなければなりません。皇紀二千七百年になろうとしている日本が外国から学ぶものは、もう何もありません。『照顧却下』です。自分の足元をしっかり見つめる時がやって来ました。今、テレビでハンバーガーの宣伝が報じられています。何層にも重ねられたハンバーガーを恥じらいもなく、齧(かぶ)り付き犬喰いをしていました。どこかのお茶漬けのりの宣伝を見ていましたら、或る若い男性が、扇風機を乱暴にあつかい、胡坐(あぐら)をかいて、お茶漬けをお腹にかき込み、それが終わると、食べ終わった器と箸を無造作にほうりなげるシーンがありました。ハンバーガーの宣伝とよく似かよっているように思いますが、皆さんはどう思いになりましょうか。
 お腹を満たすだけが食事ではありません。そこで、禅寺では、「五(ご)観(かん)の偈(げ)」を唱えて食事をいたします。それを紹介しますと、

 一つには、功の多少を計り彼(か)の来(らい)処(しょ)を量る。

  【口語】この食物(たべもの)が食膳に運ばれるまでには幾多の人々の労力と神仏の加護によることを思って感謝いたします。

 二つには、己の徳行の全闕(ぜんけつ)と忖(はか)って供に応ず。

  【口語】私の徳行の足らざるに此の食物(たべもの)を頂くことを過分に思います。

 三つには、慎を防ぎ過貪(とがとん)等(とう)を離るるを宗とす。

  【口語】此の食物に向かい旨いからと貪る心、不味(あじない)からと厭(いと)う心を起こしません。

 四つには、正に良薬を事とするは形枯(ぎょうこ)を療ぜんが為なり。

  【口語】此の食物(たべもの)は私の心身を癒(いや)す良薬と心得て頂きます。

 五つには、道業を成就ぜんが為に当(まさ)に此の食(じき)を受くべし。

  【口語】此の食物(たべもの)は道を成就せんが為に頂くことを誓います。

 食事も仏道修行の一環ですし、食事の大切さを、十分知った上で、頂かなければならないと思います。
 さて、本題の『芭蕉しゅ杖』に入りましょう。

 無門関の第四十四則に、
  芭蕉和尚、衆に示して曰く、「汝(なんじ)にしゅ杖子(じょうす)有らば、我汝(なんじ)にしゅ杖子を与えん、汝にしゅ杖子無くんば、我汝がしゅ杖子を奪わん。」

とあります。現代訳をいたしますと、

芭蕉和尚は修行僧達に示しておっしゃった。 「もし、あなたが杖を持っているならば、わたしは、あなたに杖をやろう。あなたが杖を持っていないならば、わたしは、あなたの杖を奪い取ろう。」


 世間の常識に惑わされてはなりません。一流大学を卒業して、一流会社に就職。お給料をたくさんいただき、マイホーム。休日には、高級車でドライブ。海外旅行が趣味。これは、世間で言う幸せと言われる常識です。しかし、大学を出ていなくても、小さな会社に勤めていても、お給料が安くても、借家に住んでいても、お金のかからない趣味でも、幸せは十分味わえるのであります。世間の常識を超越したところにも幸せを見出すことができます。  ややもすると、私達は世間体(てい)が悪いからと言って、無理をし、世間の目があるからと言って無理をし、世間の常識と言って、無理をしているのが、日々の生活であります。無理とは、理(ことわり)が無いと書きます。理(ことわり)とは、道理のことであります。道理とは、仏道におけるお悟りのことであります。そうしますと、世間体(てい)や世間の目・世間の常識は、仏道におけるお悟りから、ほど遠いものと言わざるを得ません。  いろはカルタに、「無理が通れば道理が引っ込む」と言う読み札がありますように、道理にはずれたことが世の中で行われると、お浄土・お悟りは遠退(とおの)いていくものと、芭蕉しゅ杖より学びたいと思います。  



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