●独知

23.平成18年9月23日(土) 秋季彼岸会の一席
 演題「独知」  住職(服部潤承)


 あれだけ暑かった夏の名残も、 お彼岸になりますと、随分、凌ぎやすくなりました。 空が高く澄んでまいりましたし、木々の緑も少しずつ萌黄色にかわってまいりました。 虫の奏でる曲も、夏から秋の音にかわって、秋風も手伝って、もの悲しく聞えてまいります。
 死ぬよりも、生き残ることの、何と難しい時代でありましょうか。 世の中は、混沌として若者からお年寄りまで、生きることにすっかり疲れてしまいました。 真面目で、優しくて、人一倍気がきき、人に好かれる方ほど、悩み多き苦しい時代であります。 また、そのような方に限って、騙されたり、裏切られたりして、世を儚んで自分で自分を無きものにしてしまいがちでございます。
 子供から大人まで、口を開けば、金・金。 この世の中は、金が全てのごとく、金に翻弄され、血眼になって、貪っています。 自分のおなかを満たすためには、不正や虚偽はお構いなし。 口一杯に頬張っていながら、まだ手を延ばして欲しがり、口に次から次へと運んでいるようなものでありましょう。
 禅語に、「知足」と言うことばがあります。 龍安寺の石庭の手水鉢に、「吾れ唯だ足るを知る」とありますように、満腹から腹八分目や腹五分目にひかえて、それでいて十分満足するように、 多くを望まないで、ひかえ目を美徳としたいものであります。
 九月に入って、善い知らせが日本中を駆け巡りました。 それは、天皇家秋篠宮殿下と妃殿下の間に男児が誕生されました。 お名前が悠仁さま。 皇位継承第三位に列されました。 去年の今頃、女帝や女系天皇を視野に入れた皇室典範の改正が有識者によって検討されていましたが、 いつの間にか、終息してしまいました。 いずれにしましても、国論が二分するような難題を議論し決着をつけるようなことは、避けられるものでしたら避けたほうがよろしいか存じます。 それは、必ずと言っていい程、後に禍根を残すからであります。
 今上天皇(平成天皇)より遡ること17代前に、禅に造詣が深かった後水尾天皇がいらしゃっていました。
 後水尾天皇は、後陽成天皇と中和門院との間に、第3皇子として誕生されました。 16歳と言う若さで即位され、在位18年で皇女明正天皇に位を譲り、以後4代にわたり院政を敷かれました。
 その間、2代将軍徳川秀忠公の娘、東福門院を中宮にされたり、修学院離宮の造営に着手されたりします。 一方、仏門に入られ、寛文3年(1664年)5月23日、宗祖隠元禅師に帰依されました。 参禅を続けられた結果、寛文7年(1671年)、後水尾太上法皇の名で臨済正伝34世となられました。 延宝元年(1673年)4月2日、病床に伏せっておられました隠元禅師に、大光普照国師の号を贈られ、8年後、85才の齢で崩御されたのであります。
 黄檗山萬福寺では、隠元禅師を祀る開山堂を見下ろすがごとく舎利殿に、後水尾法皇像を奉安し、毎年後水尾法皇忌が巌修されております。
 また、宇治の黄檗山萬福寺の地は、近衛家領で、後水尾天皇の皇太后・中和門院の御殿があったところであります。
 こう見ますと、私どもの宗門は、徳川幕府だけでなく、天皇家とも仏縁が深こうございましたし、また、 佛日寺でも旧麻田藩主青木家のご先祖様は、宣化天皇でいらっしゃいますので、この度の悠仁さまご誕生は、一入嬉ばしいできごとでございます。
 さて、私達は、一生懸命努力しても報われなかったり、認められなかったりすることがあります。 その時に、腹を立てる人もいれば、そうでない人もいます。 そこで、論語。学而編の一節、「人知らずして慍みず、また君子ならずや。」と。 人が自分のことを知らなくても、憤らない。それはまさしく君子(人格者)ではないかと。 孔子は言っています。
 また、万葉集に、「白珠は人に知らえず 知らずともよし 知らずとも われ知れらば 知らずともよし」と、 元興寺の僧が詠っています。 口語訳は、「真珠の美しきを人に知られていない。 たとえ、知られてなくてもよい。たとえ、知られてなくても、わたしが知っていたならば、たとえ、知られてなくてもよい。」と、 真珠の美しさを自分に例えています。
 このような前置きをしながら、本題の「独知」に入りたいと思います。 「われ独り知る」から「独知」と名づけられた黄檗山萬福寺3代で、佛日寺初代住持の「慧林性機禅師」について、ご紹介いたします。
 「独知」は前の道号、「慧林」は後の道号、「性機」は法諱(生前中の名)で、万暦37年(1609年)9月8日に誕生されます。 41歳の時、万歳寺で出家、丁度隠元禅師が古黄檗を中興されたことを耳にして、ただちに古黄檗禅堂に掛塔されます。
 承応3年(1654年)、隠元禅師に従って来朝し、長崎の興福寺・崇福寺、大阪の普門寺に入られます。
 寛文元年(1661年)、麻田藩主2代青木重兼公は、先に麻田藩主の菩提寺を現在の池田の地に移し、勧請開山に隠元禅師を迎え、 初代住持に慧林禅師を招請しました。 その時、隠元禅師は、慧林禅師に払子と偈を与えて付法されました。
 延宝8年(1680年)1月、黄檗山万福寺2代木庵禅師の推挙により、黄檗山万福寺3代住持の重席を継がれます。 同年8月、後水尾法皇の崩御により、泉涌寺に赴き拈香諷経を、同じく9月には、徳川綱吉公の5代将軍就任により、 祝賀のため江戸城に赴き拝謁されます。
 天和元年(1681年)、病気を機に、黄檗山内に寿塔を建て後生の支度に、龍興院を建立して退隠の処とします。
 9月には、病気を押しながら授戒会を主催し、5百余人に戒律を授けられます。 また同時に、香国道蓮禅師・晦岩道熙禅師・黙堂道轟禅師・別伝道経禅師・石雲道如禅師に付法されます。
 10月、先月に引継ぎ、喝雲道威禅師に付法され、また一方、老中稲葉正則公や寺社奉行に、黄檗山萬福寺4代住持として独湛禅師を推挙されます。
 11月11日、四大不調により臨命終を予め知って、遺偈をしたためられます。 偶然にも、麻田藩主2代青木重兼公が訪れた時、忽然として、遷化、御歳73歳でした。
 したためられた遺偈は、
 来也錯。去也錯。一隻草鞋活如龍打翻筋斗。
 錯。錯。錯。
 私訳は、
 来るも安心。去るも安心、片方のわらじの
 勢いは、龍が宙返りして飛んでいるような
 もの。安心。安心。安心。
 3日後、火葬に付され、収骨の際、遺偈の通り、灰の中より片方のわらじを発見し、12月5日に遺骨とともに片方のわらじを黄檗山内にある寿塔に納められました。
 一花五葉を開くように、慧林禅師の遷化後、6人の弟子が活躍します。 それは、別伝・石雲・香国・晦岩・黙堂・喝雲の諸師で、この6人により、 現在の龍興派の基盤が築き上げられたのであります。



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