●二僧巻簾

17.平成17年8月6日(土) 施餓鬼会の一席
 演題「二僧巻簾」  住職(服部潤承)


 私達の心の中に、餓鬼の心が巣くい、それが増殖して止まるところがありません。 まるで、悪性の腫瘍が全身に転移し、勢いを増しているかのようであります。
 ニュースを見ていますと、日本中が餓鬼と化し、重病人の様相を呈しています。
 本日、年に一度のお施餓鬼会を勤め、その意義について、理解を深めていき、来るお盆の供養をし、 私達の心を仏様の心に転じていくことができれば、何よりの功徳といわざるを得ません。
 丁度、この間7月2日(土)の午後9時からのクイズ番組「世界不思議発見」で、インドの西方にある仏教遺跡を紹介していました。 曾ては仏教を信仰していましたソクド人の仏教遺跡です。 ソクド人は、仏教信仰以前には拝火教(ゾロアスター教)を信仰し、火を焚き、火を崇め、火を拝んだそうであります。 それが仏教に影響したそうです。 火を扱う祭事をウルヴァンと言い、「霊魂」と言う意味であります。お灯明をあげたり、お香を焚いたりするのは、その表れだそうであります。
 従来、「孟蘭盆」は「ウラバンナー」と言い、「倒懸の苦しみ」と訳されていましたが、 そのうち「ウルヴァン」の意味として「霊魂」と訳される時が来るかもしれません。 どちらかと言うと、私達は「霊魂」の方が、馴染みやすいのではないでしょうか。 お盆は、ご先祖様の「たましい」が、お里帰りをなさる日なのであります。
 今年は、気の毒にも不慮の事故で初盆を迎えられるご家庭がたくさんございます。
 4月25日、JR福知山線で列車脱線転覆事故で、107人の尊い命が一瞬にして奪われてしまいました。改めて、ご冥福をお祈り申し上げます。
 この世に神様がいらっしゃるとしますと、神様と言うのは、何と惨いことをする方なのだろうかと思ってしまいます。 事故を未然に防ぐのが、全知全能の神様の務めでないのでしょうか。 それができないのであれば、せめて、関係者に啓示を与えるだけでも神様のお役目ではないかと、思ったのは私だけでしょうか。 それにしても、多くの方が悲しい思いをされました。 乗客の皆さん・事故現場周辺の皆さん・鉄道関係の皆さん等々大変気の毒なことであります。 まさしく「神も仏もないものか」という言葉があたっているように思います。 その中で、市場の方が、ケガ人のために氷を提供されたり、近くの中学校からは、保健室の医療品や担架を貸し出されたり、 運送会社の方は、ケガ人を病院に搬送されたり、会社員や住民の方は、交通整理や事故車両からケガ人を救出したりされていました。 これが、本当の「地獄で仏」というのでありましょう。 ご苦労様と頭が下がる思いでありましたが、その反面、事故車両に乗り合わせていたJR職員が、どんな事情があったのか存じませんが、苦しんでいる乗客を 見殺しにして事故現場を立ち去ったのは、「鬼畜の所業」といわざるを得ません。逃げ去ったJR職員に、少しでも公衆に奉仕する心があれば、こんなことはできなかったと思います。 民営化の歪みが出たのかもしれません。
 先月、7月6日、2012年のオリンピックの開催地がロンドンに決まりました。 その瞬間、イギリス全土で歓声があがったそうであります。 しかし、その明くる日の7月7日8時50分頃、ロンドンの地下鉄と2階建てバスが、同時多発テロにあい、 50人以上の死亡者と500人以上の負傷者が出ました。 大変気の毒なことで、お悔やみとお見舞い申し上げるほかございません。
 皮肉なことに、その日はG8先進国首脳会議がスコットランドのグレンイーグルズ・ホテルで開催されているときでありました。 それをみての同時テロと言われています。 犯行声明文によりますと、十字軍に対する報復とか。 11世紀末から13世紀、西欧キリスト教徒が聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回するために起こした遠征を言います。 その仕返しに、今回の同時テロを決行したと言うことになるのでしょうか。 「江戸の敵を長崎で討つ」の国際版と言ったところでしょう。  国際平和と人類の幸福を願う真の宗教であれば、こんなことは、しないはずであります。
 随分、前置きが長くなりましたが、本日の本題に入ります。
 無門関 第26則に、
 清涼大法眼、因みに僧、斎前に上参す。 眼手を以て簾を指す。時に二僧有り、同じく去って簾を巻く。眼曰く、「一得一失」。とあります。
 現代訳をしますと、清涼寺の法眼禅師に、修行僧がお昼前に参禅に来ました。 法眼禅師は手で簾を指します。 そこで二人の修行僧が簾のところに行き、巻き上げます。 簾を上げている様子を見て法眼禅師は、「一人はよし、一人はダメ」と言いました。
 法眼文益禅師(885〜958)が、2人の修行僧が同じ動作をしているのに、一人はよく、一人はダメと言ったその意味について考えてみたいと思います。
 「よい」と「わるい」は、世間でよく使われる基準であります。 どこそこの会社の業績はよいとかわるいとか。 どこそこの学校の進学率はよいとかわるいとか。どこぞそこの病院のみたてはよいとかわるいとか。 この見方は、二極両端の一直線上の判断であり、物事を表面上でのとらえ方であります。
 この世に存在する自然物を見ますと、立体的なものばかりです。 つまり、上下・左右からなりたっております。 それを一方向から見てしまいますと、平面にしか見えません。 丁度、球体も一方向から見ますと、円にしか見えないのと同じです。
 「一得一失・一人はよく、一人はダメ」は、物事を立体的に見聞き感じることを言い、物事を両義的においてつかまえることを言っているのでありましょう。
 別の例を挙げますと、今、私達は生きていますが、その裏に死が潜んでおります。 生と死が共存し、生と死が同時進行していると言う見方であります。 世間では、生が終わると、次に死がやってくると見ます。 確かにそうですが、この見方は、平面的な二分法の論理と言わざるを得ません。
 「一人はよく、一人はダメ」の話に戻します。 よく使われる言葉に、「清濁あわせ呑む」と言うのがありますが、度量が大きく、善も悪もあるままに受け入れると言う意味で、本日のテーマに、当たらずといえども遠からずと言えましょう。 小賢しい、分別心を離れ、中道を歩まなければならないと心得たいものであります。



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