12.平成16年3月20日(土) 春季彼岸会の一席
演題「平常心是道」 住職(服部潤承) | |
お正月が過ぎて、早3ヶ月になりますが、今年のお正月は、どのように過ごされましたでしょうか。
以前は、よく家族揃って双六をしたものであります。
振り出しがスタートで、あがりがゴールです。
さいころを振って、出た目の数だけ進むことができます。
最初は順調であっても後半、調子が悪くなる人や、その逆の人、また、最初から最後まで順調良く進む人や、その逆の人、それは人様々で一様ではありません。
まるで私たちの人生を象徴しているかのような錯覚に落ち入ります。
さいころの最大数であります6の目を出して、他の人より先に進みたいと思いますが、最小の1や2の目しか出ないので、なかなか前に進みません。
しかし、他の人は5や6の目が出て、どんどん進んで離されるばかりで、こちらは不安とあせりが出てまいります。
やっとの思い出、他の人に追い着き、追い越して、あがりに近づいているのに、思った目が出ないで、後戻りを繰り返さなければなりません。
そうしているうちに、いつの間にやら他の人が追い着いて来て、こちらはいらいらしてしまいます。
あとから来た人が、追い着き、追い越して、いとも簡単にあがってしまいますが、こちらは相も変わらず後戻りを繰り返して、せっかく早くあがり近くまで来ているのに、先を越されて、こちらはくやしくてくやしくてたまりません。
他の人が振り出しに戻ったり、休みになり進めなくなったりすると、こちらはほっとして、他の人が上がれないのをしめしめと内心喜んで、この間に上がってやろうとひそかに願ってしまいます。
「人の幸は羨ましく、己の幸はうれしい。己の不幸はかなしく、人の不幸はおもしろい。」私達の心の構造はどうなっているのでしょうか。
人の心と言うものは、なんと醜く、情けないことかと思ってしまいます。
生まれつき持ち合わせている人の業というものでしょうか。
それとも煩悩のなせる業なんでしょうか。
今、ある事象を他と比較しないで、ありのまま淡々と受けとめていくことができる寛い心・とらわれない心・執着のない心を持ちたいものであります。
前置きは、これぐらいにしまして、本日の演題であります『平常心是道』について、お話させていただきます。
無門関の第19則に、「南泉、因に趙州問う。如何なるか是れ道。泉云く、平常心是れ道。」と言う一件があります。
中国の唐の時代、趙州禅師が師匠であります南泉禅師に質問しました。「道とは何でありましょうか。」と、すると、南泉禅師は先輩の馬祖禅師のお言葉を借りて、「平常心こそが道であります。」と、答えたのであります。
まず、「道」という字は、音読みをすると、「ドウ」、訓読みをすると、「みち」と読みますが、中国では、「道」という字を古くからよく使っており、ただ単なる「道路」とか、「進むべき道」という意味だけではありません。
他に、「悟り」・「涅槃」・「真理」・「真実」という意味にもたくさん使われています。
日本でも、よく色紙等に書かれる字であることは皆さんもご存知の通りであります。
意味としては、後者の「悟り」・「真実」という意味で使われている方が多いのではないかと思います。
また、「道」のつく伝統文化がありますが、「茶道」とうのは、茶の心を極めつくすという意味でしょうし、「華道」というのは、花の美を極めつくすといういう意味でしょう。
すると、「仏道」とは、仏の悟りを極めつくすことに徹することかと思います。
そこで、本題に戻りますと、趙州禅師は師匠に、「悟り」とは何でしょうかと尋ね、南泉禅師は、「平常心こそが悟りである。」と、即答されたのであります。
臨済宗の白隠禅師の師匠、正受老人の道歌に、
道という言葉に迷うことなかれ 朝夕おのがなすわざと知れ
と、ありますように、「朝夕おのがなすわざ」が平常心なのであります。
「平常心」をヘイジョウシンと読んで、「常に冷静沈着であれ」とか、「なにがあろううとも狼狽えるな」という意味にとってしまいますと大変です。
1年中一喜一憂していますので、なかなかそんなことはできません。
ビョウジョウシンには、広くて深い意味が含まれます。それは、1日24時間の自分に与えられた貴重な生活時間を余すことなく有効に使えと言う意味であります。
言い換えれば、ただ今、目の前のことに徹する、つまり、寝る時には寝る、起きる時には起きる、ご飯をいただくときにはいただく、働くときは働くという具合に、ただ凡事を徹底するだけであります。
それは、別段変わったことをすることではありません。ただ、日常生活を全身全霊をかたむけて、淡々と進めることを意味しております。
二宮尊徳が詠ったとかいう和歌があります。
“此の秋は 雨か嵐か知らねども 今日の務めに 田草とるなり”
収穫の秋になりますと、台風シーズンでもありますので、大雨が降ったり、大風が吹いたりして、せっかく実った稲が雨に流されたり風になぎたおされたりすることが往々にしてあります。
しかし、どうなろうとも、今することは、田圃の草取りをしなければならない時期が来たのでありますから、ただただひたすら草取りに専念すればよいという意味ではないかと思います。
お釈迦さまは、「過去を追わず、未来を願わず」とおっしゃっています。
つまり、今を大切にすること、今が大事であるとおっしゃっているのであります。
平凡でもよい、今を一所懸命に生きること、言い換えると、今するべきことに徹することが『平常心是道』なのであります。
ながらくのご清聴ありがとうございました。
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