11.平成15年9月23日(火) 秋季彼岸会の一席 演題「放下著」 住職(服部潤承) | |
1ヶ月前の地蔵盆の時でした。
庭に咲いていた白の鉄砲百合が目の前で、風も吹いていないのにスルスルと萼を離れて、静かに地上に落ちて行ったのを見ました。
秋本番になりますと、木々の緑も紅葉して自然に枝を離れてヒラヒラと落ちて行きます。
このような無心の営みを、目にいたしますと、フッと我にかえることがあります。
8月の終わり頃、次のようなローカル・ニュースがありました。
奈良の郡山で、金魚掬い大会があり、ポイと言うもので金魚を掬うのですが、破れにくい材質のポイで、うまくチャンピオンになった人がいました。
たまたまビデオ撮影をしていた人が不正を発見したそうです。
不正をした理由が、3年連続のチャンピオンと言う名誉欲がそうさせたそうです。
人から名人名人と称えられ、プライドもできたのでしょう。
いつの間にか、それにとりつかれてしまったわけです。
気楽な気持ちで金魚掬い大会に参加すればよかったのにと思います。
皆さんの家では、チューリップを植えられることがありますか。
同じチューリップを毎年咲かせるのには、どうしたらよいでしょうか。
球根を植えぱなしでは、毎年咲きません。
球根は細るばかりで、いずれは消えてしまいます。
そこで、花が咲いた途端、惜しげもなくその花を切り落としてしまいます。
そして、球根を地中から掘り出すわけです。
花は死んでしまいますが、球根は生き残り、次の年に花を咲かせるのであります。
野球で、バッターがよくバントをします。
バントでは、ホームランはできません。
精々ボールを数メートル打つだけです。
間違いなく塁に出ることはできません。
ほとんど確実にアウトになってしまいます。
自分を殺して、他を生かすことになります。
普段の日常生活では、なかなかこのようなことはできないものですが、人生の一大事に、人生の転機に、この話を思い出して欲しいと思います。
坐禅会にいつも参加されています佐野さんは尼崎や大阪で鰹節関係の商売をされており、お客さまにも大変喜ばれて、不景気のなかでも順調よく繁盛していたとのことでした。
しかし、ご高齢のお母さんを看るのに、重労働を奥さんだけに任せられないと、長年やって来られました商売を思い切って人に譲られました。
長い人生の中で、数年に一度は決心を要する時がやって来ます。
転機といいましょうか、選択をせまられる時があります。
幻想や、損得勘定で進退を決めないことが大切かと思います。
また、檀家の岸本さんは、防衛庁に勤務され、国家機密に関わる重要な任務につかれていましたが、目のご不自由なお母さんのことを思い、停年まで数年を残し、キッパリとご退職され、この池田の地に帰って来られました。
また、大阪府の或る市長さんは、奥さんが、痴呆症にかかられました。
奥さんの看病を理由に、このままでは市民に大変迷惑をかけるということで、任期満了を待たないで退任されました。
損得勘定からすると、途中で止めることは、大変もったいないことかと思われます。
お給料は無くなるは、退職金は予定額より少なくなるはで、大変損をされたかのようでありますが、もっと大切なもの・かけがいのないものを大事にされていることに気づかされます。
随分、長い前置きの話をいたしましたが、この話は本日の演題に関連しております。
本日の演題が、「放下著」であります。
『従容録』の第57則に、次のような内容が出ています。
厳陽尊者が趙州禅師に、「一物不将来の時如何」(すべて捨ててしまって、何も残っていない。どうしようか。)と尋ねます。
そこで、趙州禅師は、一言「放下著」と答えます。
すると、厳陽尊者が、「已(すで)に是れ一物不将来、這(こ)の什麼(なに)を放下せん」(何も持っていない、捨てろとは。何を捨てたらよいのか。)と尋ねます。
そこで、趙州禅師は、「恁麼(いんも)ならば則ち担取し去れ」(それでは、かついで行け。)と答えたのであります。
『放下著』の「放下」とは、執着を離れる・こだわらない・捨てる・去ると言う意味であります。
『著』は、命令を表す助字で、「〜せよ」と言う意味でありますから、「執着を離れよ」・「こだわるな」・「捨てよ」・「去れ」と解釈できます。
私達の苦しみの元凶は、「執着」や「こだわり」から来るものが多いのではないかと思います。つまり、世間の常識やものさしにとらわれてしまっているからであります。世間の常識やものさしを捨てよ・去れというのが、『放下著』なのであります。
言い替えれば、私達が子供の時から学校等で否をなしに教えられ、身につけてしまった物事を相対的に見聞き、理解する二分法を止めよと言うのであります。
最初に話しました白百合が萼からスルスルと抜け落ちるのも、紅葉が枝からヒラヒラと落ちて行くのも、無心の営みと言って宜しいかと思います。
今日のお彼岸を境に、分別を離れた無心の営み・放下著の心境に入って行きたいものであります。
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