●達磨安心

1.平成13年8月4日(土) 施餓鬼会の一席
  演題「達磨安心」 住職(服部潤承)


 長時間にわたり、お施餓鬼をつとめ、お盆の供養と、わたしたちの心の中に潜む、「餓鬼」の心を、少しでも、「仏様」の心に変えることができましたら、よいお盆行事になったことかと存じます。
 さて、本日の演題は、「達磨安心」でございます。今から1500年前のことです。中国梁の武帝が達磨大師に、「私は、たくさんお寺を建立し、仏像を彫造しましたが、どのような功徳がありましょうか。」と、尋ねたそうです。
  そこで、達磨大師は、一言「無功徳」と答えたのであります。
 梁の武帝は、「功徳が無い」という意味に早合点して、がっかりしたそうです。
 「有る」とか、「無い」とか、という分別心による相対的二分法で、もの事を見てしまったのであります。もし、仮に、達磨大師が「有功徳」と答えていれば、梁の武帝は大喜びでしたでしょう。低レベルの世間のもの差し、つまり分別心で、一喜一憂してはならないのであります。
 その後、達磨大師は、北魏の嵩山に赴き、面壁9年、壁に9年間、向かって坐り続けました。9年間も坐り続けたものですから、手も足も不自由になったとか。・・・・・
 ある日、神光という人が坐禅をしている達磨大師のところにやって来て、お弟子にして欲しいと懇願します。しかし、達磨大師は、なかなか受け入れません。
 そこで、神光は、自分の左腕を切り落として、血がしたたり落ちる左腕を、右手に持って、達磨大師に示したのであります。以心伝心と申しましょうか、とうとう達磨大師は、神光の弟子入りを認めたのであります。禅宗第二祖、慧可(487〜593)が、この方であります。禅宗のお袈裟の脱着が簡易になったのは、この頃とか。・・・・・
 「無門関」第41則に、
 達磨面壁す。二祖雪に立つ。臂を断じて云く、「弟子は心未だ安からず、乞う、師よ、安心せしめよ。」磨云く、「心を将ち来れ、汝が為めに安んぜん。」祖云く、「心を覓むるに了に不可徳なり。」磨云く、汝が為めに安心し竟んぬ。」
 達磨大師が坐禅をしている時、慧可が、雪の中に立って、自分の腕を切り落として、言った。
 慧可は、「心が不安です。どうか、達磨大師、わたくしの不安な心を取り除いて下さい。」と言います。
 そこで、達磨大師は、「その不安な心を、ここに持って来なさい。あなたのために、不安な心を取り除きましょう。」と言います。
 慧可は、「その不安な心を、さがしたのですが、どこにも見つかりません。」と言います。
 そこで、達磨大師が、「これで、あなたの不安な心は、取り除けました。安心できたでしょう。」と言いました。
 私の心の中は、コロコロ変わるから、「こころ」と申します。私の心は、常に「六道」を輪廻しています。つまり、迷っているのであります。
 地獄の心・・・つらく、苦しい精神状態を言います。
 餓鬼の心・・・欲深く、むさぼる精神状態を言います。
 畜生の心・・・理性を失い、本能のまま行動する精神状態を言います。
 修羅の心・・・いかり、争い、勝ち負けにこだわる精神状態を言います。
 人の心  ・・・執着し、あれやこれやと迷ったり、かたよったりしている精神状態を言います。
 天の心  ・・・有頂天ということばがあるように、見下げたり、いい気になったり、勝ち誇ったりしている精神状態をいいます。
 皆さんの今の精神状態は、どうですか。
 本来、無色透明の心、すなわち無心であるのにもかかわらず、色々な作用、影響により不安を生じさせているのであります。
 本来何もないのに、ああだ、こうだという分別心が不安を生じさせているのであります。
  幽霊の正体見たり枯れ尾花
 幽霊がいるとか、幽霊が出るとか、と思っていますと、ススキが幽霊に見えてくるものであります。


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