●拙を養う

令和3年1月掲載

 ※原文は縦書きのため漢数字で表記しております。

 昨年は新型コロナウィルスにより、当たり前に出来ていたことが当たり前に出来ない一年をすごしました。お寺の行事にしても、お彼岸会やお施餓鬼では少人数で厳修し、除夜の鐘では例年ならお参りに来られた皆様に一人一人撞いて頂くところですが、お寺の者が全て撞かせて頂きました。坐禅会や写経会も開催出来たのはわずかです。この様な日常がこれからの日常となるのではと覚悟しなければなりません。この新年を私達はいかなる心持ちで過ごして行けばよいでしょうか?
 さて、開山の隠元禅師は、ある手紙の中で「老いた私にできることは、ただ拙(せつ)を養(やしな)うことです」とおっしゃっています。拙とは「幼い」「つたない」「愚鈍(ぐどん)」といった意味合いとなります。反対に「器用」「巧妙」「才知」という意味合いを持った言葉を「巧」と言います。一般世間では、才能豊かで、立ち回りが上手く、要領よく生きていく「巧」を良しと考えますが、一方、隠元禅師は愚直(ぐちょく)に、言葉少なに、正直に己を飾(かざ)らず、あるがままの自分の本性・生き方を大切にすることを大切にされました。思い起こせば私が本山の修行道場に入りたての頃には、先輩方より「バカになれ」とよくお叱りを受けました。自分の中では精一杯頑張っているつもりでしたが、中々世間の生活や甘えが抜けていないことを見透かされていたのではないかと思います。この「バカになる」とは、文字通りの常軌を逸した行動をせよという意味ではありません。今まで世間で培(つちか)ってきた知識や経歴、常識、自惚(うぬぼ)れを全て捨て去って、まっさらな気持ちで物事に当たりなさいという事です。修行をするまではあまり気付きませんでしたが、私というものは我執(がしゅう)の塊です。自分は謙遜(けんそん)の人であり、他人想いであると思っていましたが、厳しい環境に身を置かれると、思い遣りの心も吹っ飛んでいき、自分が可愛くて可愛くて仕方が無い自己中心的な人間だということに気付かされるわけです。この我執というものが最も厄介なものです。「バカになれ」とは、自分の持っている主義、肩書き、知識を捨てよということと共に、持っている我執を捨て切れと教えているわけです。隠元禅師の「拙を養う」という言葉が、現在は「バカになれ」という言葉になって修行道場に伝えられているのかも知れません。
 以上、「拙を養う」についての話をさせて頂きました。この一年いかなることが起こるかは分かりませんが、苦楽の起伏(きふく)が必ずあると思います。この苦境の中でこそ隠元禅師のおっしゃった「拙を養う」という生き方を以て、まっさらな気持ちで歩んで行けたらと思います。


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