●環境の変化とふるまい

令和2年12月掲載

 ※原文は縦書きのため漢数字で表記しております。

 気がつけば年末です。今年は新型コロナウイルスの影響で東京オリンピックが延期となり、甲子園も中止となりました。佛日寺でも幾つかの行事の開催を検討する必要がありました。大変な一年でしたね。去年と環境ががらりと変わり、思い通りにならずにストレスを抱え、人柄の変わってしまった人も居られることでしょう。佛教徒にとってはこの様な苦境にある時こそ日常より身の行いと、口の行いである言葉と、心の持ち様の三業(さんごう)を清める必要があります。心が濁れば行いが汚れ、言葉も粗暴になってしまいます。『仏教聖典』に次の様なお話があります。

 昔、ある金持ちの女主人が居ました。親切で、お淑(しと)やかで、謙虚であったため、まことに評判の良い人でした。その家に一人の使用人が居て、これも利口で働き者でした。  ある時、その使用人は、「うちの主人は、評判の良い人だが、それは腹からそういう人なのか、または、よい環境がそうさせているのか、一つ試してみよう」
 そこで、使用人は、次の日、朝起きてこずに、昼頃に顔を見せました。女主人は機嫌を悪くして、行いを咎(とが)めましたが、使用人は「一日くらい遅くともそんなに怒るもんではないでしょう」と返事をして、女主人はさらに機嫌を悪くしました。使用人はさらに次の日も遅く起きてきました。女主人は怒り、ついには棒で使用人を打ちすえました。そして、女主人はそれまでの評判を失いました。
 だれでもこの女主人と同じです。環境がすべて心にかなうと、親切で謙遜で、静かであることができます。しかし、環境が心に逆らってきても、なお、そのようにしていられるかどうかが問題なのです。
 自分にとって面白くない言葉が耳に入って来るとき、相手が明らかに自分に敵意を見せて迫って来る時、衣食住が容易に得られない時、このようなときにも、なお静かな心と善い行いとを持ち続けることが出来るでしょうか。
 だから、環境が全て心にかなうときだけ、静かな心を持ち善い行いをしても、それはまことに善い人とは言えない。佛の教えを喜び、教えに身も心も練り上げた人こそ、静かにして、謙遜な、良い人と言えるのです。(出展『仏教聖典』)  

 中々、耳の痛いお話ですね。仕事にしても日常生活にしても順調に進んでいる時には、余裕をもって心穏やかふるまえますが、緊急事態や今年の様なコロナ禍にあれば中々そうも出来ず、三業が煩悩で汚されてしまします。しかし、それが人間という生き物の本質かと思います。そうならない人こそ仏様です。中々仏様の用にはなれません。皆さまも時間を見つけては、煩悩(ぼんのう)から三業を浄めて、仏様の心に立ちかえる時間を持っていただければと存じます。
 今年も十二月三十一日、午後十一時三十分より除夜の鐘奉納をする予定です。現在のところ開催方法は、例年通りと考えておりますが、急に環境が変化する可能性がありますので、詳細はホームページをご覧頂ければと存じます。
 それでは、よいお年をお迎えください。


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