●慧林禅師

令和2年11月掲載

 ※原文は縦書きのため漢数字で表記しております。

 十一月十一日は世間では「ポッキーの日」ですね。この日は佛日寺にとって大切な日でもあります。初代住職の慧林性機(えりんしょうき)禅師の命日です。「慧林」は佛日寺の寺報の題にもなっております。今回は慧林禅師を紹介させて頂きます。

 慧林禅師は一六〇九年に、明国福建省福清県の代々教師を生業としている家に産まれました。官僚登用を目指し科挙試験のために勉学に励んでいましたが、明清の戦乱期になって世の無常を感じ、四十歳の時、祇園(ぎおん)和尚の下で出家をします。その後、福建省黄檗山萬福寺(古黄檗)の隠元(いんげん)禅師に弟子入りします。生真面目で勉学にも優れていたことから、文筆や記録を司る記室(きしつ)という配役を与えられます。

 一六五四年、隠元禅師と数十人の弟子と共に長崎へ渡航します。この時は「独知(どくち)」と名乗っていました。長崎には華僑が建立した興福寺や崇福寺といった唐寺(からでら)にて、集中修行を行います。寺には隠元禅師の名声を聞きつけた多くの日本僧がやって来て共に修行をしました。その中でも慧林禅師は「維那」という修行僧を指導する配役を与えられ、日本僧にも優れた人物であると高評価を受けます。その後、隠元禅師は摂津の普門寺に迎えられ、それに慧林禅師も同行します。

 一六五九年、隠元禅師は江戸城に登城して四代将軍徳川家綱公と拝謁します。これが縁となり現在の宇治に黄檗山萬福寺の建立を認められます。

 一六六一年、慧林禅師は萬福寺の寺地を賜った御礼に隠元禅師の名代で江戸城に登場し、中国の書家である祝允明(しゅくいんめい)の軸を献上するという大役を担います。同年には、麻田藩主青木重兼公の建立した佛日寺の初代住職に任命されます。来朝した隠元禅師の弟子の中では最もはやくに一山の住職となり印可を受けました。これらのことから、隠元禅師からの信頼が非常に篤かったことがうかがえます。そして、二十年間の長きに渡り佛日寺を護寺され、後進の育成や麻田藩の人々の教化を熱心にされました。この時期の慧林禅師の言行録(語録)は、「耶山集(やさんしゅう)」「仏日慧林禅師語録」等が弟子により残されています。また、人望篤く黄檗僧の木庵禅師(萬福寺二代)、高泉禅師(萬福寺五代)、南源禅師、独照禅師等の高僧が訪問しておりますし、日本僧においても虎林禅師(天龍寺二〇二代)や泊如僧正(智積院七代)と親交があった様です。また、書にも優れていることから三田心月院等の近隣寺院に、慧林禅師の書かれた聯や額が残されています。

 一六八〇年、萬福寺二代目の木庵(もくあん)禅師に推挙され、三代目の住職に任命されます。同年、黄檗の僧侶を庇護し続けてこられた御水尾法皇が崩御され、その葬儀にて拈香師(ねんこうし)という大役を務められました。

 慧林禅師は度々体調を崩され、一六八一年に住職を退き、塔頭の龍興院(りょうこういん)に移られました。同年の十一月十一日には、病床の周りに弟子を集め遺偈(ゆいげ)を説かれ、駆け付けた重兼公の顔を見るや否や遷化(せんげ)されました。世壽七十三歳、僧臘(そうろう)三十四年でした。慧林禅師の法の流れを「龍興派(りょうこうは)」といいます。

 以上、慧林禅師の一生を簡単に説明しました。戦乱により夢破れた四十歳の男性が、新しい環境で精神刻苦精進を重ね、周りに認められ、遂には一山の住職に任命されました。私達にも勇気を頂ける、正にサクセスストーリーです。毎年十一月十一日頃(今年はコロナの影響で未定)には、龍興派の和尚は龍興院に集結し、派祖忌(はそき)を厳修します。深く感謝の念を申し上げると共に、慧林禅師の遺徳を偲んでおります。


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