●鐘の音が伝えるもの
令和7年12月掲載
※原文は縦書きのため漢数字で表記しております。
祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。釣鐘(つりがね)はいかに強く撞(つ)いても、やがてその音は小さくなり、ついには消えていきます。ふとふり返ると、かつて当たり前に存在していた人や物が、少しずつ姿を消しつつあることに気づかされます。仏壇屋の廃業、衣の環(かん)や金具職人の引退、長年お世話になってきた大工さんの高齢化。そして、佛日寺の鐘の音を長年にわたり管理してくださっていたご近所の方も、七十代で静かに他界されました。
地域を見渡せば、かつて十団体あった子供会はいまや四つとなり、佛日寺周辺の梅が丘子供会も、保護者の皆さんの工夫と協力により、なんとか存続しています。また、地域のつながりを支えてきた自治会でも、近年は会員数の減少が続いています。
無門関第十六則に「鐘声七條(しょうせいしちじょう)」という禅問答があります。雲門和尚は言いました「この広大な世界にいながら、なぜ鐘の音に合わせて七条袈裟をただ機械的にまとうのか」と。禅堂では鐘が法要の合図ですが、雲門は「外からの合図に反射的に動くのではなく、自らの心で確かめ、主体的に歩め」と説きます。
鐘の音はやがて消えます。しかし、消えゆくその余韻が、私たちに大切なものを伝えてくれます。地域を支えた人々の労苦、店を閉じた職人の技、子供会で交わされた笑顔等、形は失われても、響きは心に残ります。出来る事ならば、その響きを「受け継ぐ者」として生かしたいと考えます。道具や記録を保存するだけでなく、作法を学び、次の世代に伝え、互いの仕事を尊び合う場をつくる。消えゆくものを悼むとともに、その精神を次のかたちへと結び直していければと思います。
「無常」とは、ただ失われることではなく、「再生」の意味も内包しています。鐘が鳴り止めば、また新たに撞けるように、終わりは始まりを呼び込みます。誰かが去れば、誰かが担う。減った分だけ、私たち一人ひとりの一打が尊くなる。いま残る力を寄せ合い、祈りの場を次代へつなげていきたいものです。
大晦日には、佛日寺で除夜の鐘を奉納致します。去来する一年への感謝と、新しい年への願いを一打一打に込めて、どうぞお参りください。鐘の響きが皆さまの胸に、明るい未来の拍動として宿りますように。
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