●廓然無聖

令和7年8月掲載

 ※原文は縦書きのため漢数字で表記しております。

 「正義とは何か」と問われたとき、私たちは「正義の反対は悪」と考えがちです。しかし、ある心理学者は「自分の正義の反対は悪ではなく、他人の正義である」と語りました。なるほど、と思いました。まさに戦争などはその典型で、それぞれがそれぞれの正義を掲げてぶつかり合っているのです。立場が変われば見方も変わり、どちらの言い分にもそれなりの理があることが少なくありません。正義や悪というものは、実のところ私たちの物差しにすぎないのかもしれません。善悪・正邪の二項対立にとらわれることで、かえって争いが生まれてしまうのです。
 このことに通じる禅の有名な逸話があります。梁(りょう)の武帝(ぶてい)と達磨大師(だるまだいし)の問答です。仏教に深く帰依していた武帝が、インドからやってきた達磨大師に問いました。

 「如何なるか是(こ)れ聖諦第一義(しょうたいだいいちぎ)(仏法の聖なる真理とは何か)」
 これに対して大師は、「廓然無聖(かくねんむしょう)」と答えます。からりと晴れわたり、一点のわだかまりもない心のありよう。聖や俗、正義や悪といった相対的な価値観を超えたところに、真理はあるという示唆(しさ)です。大切なのは、分別(ふんべつ)を超えた心です。
 黄檗宗の大本山萬福寺の総門には、「第一義(だいいちぎ)」と記された額が掲げられています。これは五代高泉(こうせん)和尚による筆で、書の名手でもあった高泉和尚が、何度も何度も書き直し、弟子の大髄和尚の「これだ」という一枚を求めて八十四回も書き続けたといいます。ついには嫌気がさしたその時、大髄和尚が東司(お手洗い)に行かれた隙(すき)に一気に一枚したためると、それが見事に「この一枚に致しましょう!」と認められたそうです。まさに、執着を離れた廓然無聖の心が筆に現れたのでしょう。
 先日、ダウン症の書家・金澤翔子(かなざわしょうこ)さんの展覧会を拝見しました。書の力強さ、美しさだけでなく、ご本人の生き方、姿勢が深く伝わる展示でした。とりわけ心に残ったのは、「言霊(ことだま)」についての以下の解説文です。

 翔子さんは、よく祈っている。
 でも、その祈りはいつも「ありがとう」ばかりだ。
 外出から帰り、空に月が見えると「お月さまありがとう」と丁寧におじぎをしてから家に入る。どんなに遠くからでも月が一緒について来てくれて、見守ってくれていると思っている。私たちは、月は宇宙の法則で動いていることを知ってしまったけれど、翔子さんはいまだに月は自分のために高い空から見守ってくれていると思い「ありがとう。」と頭を下げている。
 その様な心が、自然の様々なものを神としてあがめていく世界を作ってきたのだろう。
 理屈や法則を知ってしまった私たちは、純粋に頭を下げて祈れているだろうか?
 祈りに理屈はいらない。ただ、ありがとう、と言葉にしていくだけで宇宙にも広がる祈りともなる。まずは「ありがとう」からはじめてみたい。

 この言葉は、知識や理屈にとらわれがちな現代の私たちに、純粋な感謝の尊さを思い出させてくれます。ただ「ありがとう」と心から口にする。そのシンプルな行為が、世界を優しく、明るく照らしてくれます。それこそが、まさに「廓然無聖」の心であると思います。
 さて、八月はお盆を迎えます。ご先祖様、そしてご縁ある方々が、私たちのもとへ集まってこられます。お墓を清め、仏間を整え、ただ「ありがとう」のまごころをもってお祈り致しましょう。


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