●達磨さん

令和2年10月掲載

 ※原文は縦書きのため漢数字で表記しております。

   皆さんは達磨さんをご存知ですか? 選挙などで当選祈願のために片眼を入れる張り子の達磨が有名です。群馬県達磨寺の「高崎達磨」や、近場では箕面勝尾寺の「勝達磨」など、各地で縁起物や置き土産として親しまれています。手足が無く赤くて丸い体に、鶴と亀をかたどった髭、顔の左右には家内安全や商売繁盛といった祈願が描かれています。幾ら倒れても立ち上がるように底に重りがついており、起き上がり小法師になっていることから、「七転び八起き」という言葉も達磨さんがいわれとなっています。
 この達磨さんですが実在の人物です。禅宗では禅の教えをインドから中国に伝えた「初祖(しょそ)達磨大師」として帰依されています。佛日寺でも本堂正面の右に鎮座されています。
 達磨さんは五世紀に南インドの香至(こうし)国の第三王子、菩提多羅(ぼだいたら)としてお産まれになりました。ある時、お釈迦さんから数えて二十七祖の般若多羅尊者(はんにゃたらそんじゃ)が香至国にやって来て、三人の王子に宝石をプレゼントしました。第一王子と第二王子は「この宝石よりもすぐれたものは、この世にはありません」と、これを大いに褒めたたえたのに対して、菩提多羅は「この宝石は世間の宝ですが、佛法よりもすぐれた宝はなく、智慧よりもすぐれた光はなく、心よりもすぐれた明かりはありません」と答え、尊者を大いに驚かせました。その後、王様である父親が亡くなり、菩提多羅は王子の位を捨て、具足戒(ぐそくかい)を受けて尊者のもとで出家をして菩提達磨(ぼだいだるま)と名を改めました。ついには尊者より付法(ふほう)され二十八祖となりました。達磨さんはインド各地を布教に回り、海路で中国に渡航しました。当時の中国南部は梁(りょう)の武帝(ぶてい)が治めており、武帝も大変篤く佛教を保護していました。武帝はインドより高僧である達磨さんがやってきたのを聞きつけ質問をします。武帝は「私は多くの寺を建て、多くの経典を写経し、僧侶を庇護してきたが、どれほどの功徳(くどく)があるのだろうか?」と尋ね、達磨さんは「無功徳(むくどく)」と答えました。「多くの功徳がありますよ」と称賛をうけると思っていた武帝ははさぞかし驚いたことでしょう。残念ながらこの後に続く問答も、武帝は達磨さんの真意をくみ取ることは出来ませんでした。達磨さんもこの地で禅の教えを広めるのには機が熟していないと悟り、長江を渡って嵩山少林寺(すうざんんしょうりんじ)に赴きました。少林寺においては洞窟の中で壁に向かってひたすら坐禅をしました。その期間は九年といわており、「面壁(めんぺき)九年」といわれています。その後、神光という修行僧が達磨さんの噂を聞きつけて、自らの左腕を肘から切り落とし、その道心の強さを示し弟子入りを許されました。この神光こそ後の二祖慧可(えか)禅師であり、ここから中国に禅の教えが徐々に広まっていきました。その後、達磨さんは六度も毒を盛られ、太和十九(四九五)年、十月五日に一五〇歳で遷化され、熊耳山(ゆうじさん)に葬られました。
 以上、簡単に達磨さんの生涯を紹介させて頂きました。今月の五日は達磨さんの命日です。皆さまのお宅に居られる張り子の達磨さんでも結構ですので、お線香を立ててお参りして頂ければと思います。佛日寺では朝のお勤めの際にひっそりと達磨忌を厳修して、達磨さんのご遺徳をお偲びします。


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