※原文は縦書きのため漢数字で表記しております。
インスタグラムにお寺の標語(ひょうご)を取り上げた愉快なアカウントがあります。その中に「自分がどれだけ役にたっているかということより、自分がどれだけ人々に支えられているかに気づくことが大切だ。」という言葉がありました。曹洞宗専門尼僧堂(にそうどう)の住職 青山老師が書かれた標語です。これを見て「はっ」とさせられました。禅の世界では「目の前のことに集中しろ」と指導されます。「周りの誘惑に振り回されず、一直線に突き進まなければならない」ということですが、中には段々と周りが見えなくなり、自分よがりな行動に走る人間が出てきます。最も無くさなければならない自己中心的な我執(がしゅう)に囚われてしまい、いつもピリピリして周りを寄せ付けず、口を開けばきつい言葉を吐き出すのです。自分ひとりの力だけで生きている気になり、「自分だけが頑張っている」「誰も役に立たない」と、増上慢(ぞうじょうまん)になってしまうのです。禅の世界に限らず皆さんの周りにもこのような人はいらっしゃると思います。こういう態度を戒(いまし)めるために青山老師が書かれのだと思います。
金八先生の有名な言葉に「人という字は、人が支えあっていると書きます。」というものがあります。これを仏教語で「相依(そうえ)」といいます。禅の道場では法要を取り仕切る殿司(でんす)、食事を司る典座(てんぞ)、修行僧を指導する知客(しか)等の配役があります。精一杯修行と向きあうことが出来るのは食事を用意してくれる典座がいるからです。食事が無ければただでさえ食べるものが少ない修行生活のなかで、忽ちエネルギー不足になってしまいます。そこに留意して典座は同じものばかりを機械的に作るのではなく、季節や温度に目を向け、暑いときは塩分を加えたり、寒いときには冷めにくくするためにトロミを付けるなどの思いやりが必要です。修行道場全体を管理する役目が知客です。修行僧がダレてくれば空気を引き締めなければなりませんし、きつい作務が続き疲労困憊(こんぱい)しているようであれば、適度に休憩させなければなりません。息抜きを与えず、ただ闇雲に厳しさのみを追求してしまえば怪我や病気で身心を壊し、誰も居なくなってしまいます。それぞれの配役がそれぞれの役目を果たしながらも、思いやりをもって支えあうことが理想的です。これは社会でも家庭でも同じことかと思います。「人」という字は二本の棒ですが、本来は無数の棒によって持ちつ持たれつ存在しています。それらを全てつなぎ合わせれば「〇(円相)」になるのではないでしょうか。ある和尚は「〇」の意味を聞かれて、「皆一緒に仲良くしましょうということを表しています。」と言われました。幼児でも知っている言葉ですが、我々大人が中々実践出来ていない言葉です。
最後になりますが当寺も皆様に支えられてこの一年を乗り越えることが出来そうです。誠に有難うございました。良いお年をお迎えください。
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