※原文は縦書きのため漢数字で表記しております。
夏、少し面食らう言葉を頂きました。「和尚さん日焼けしてはるけど、夏休みに海水浴でも行って来はったん? 楽しそうでええわぁ。」と……。
ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、お寺には夏休みもお盆休みも御座いません。一年の中でも特に忙しいのが夏なのです。七月に入れば当寺と兼務寺と二ケ寺分のお施餓鬼の準備に追われます。内では本堂の大掃除、行事案内の発送作業、外では落ち葉掃きと、無限に生えてくる雑草引き。怠(おこた)ると枯れてしまうので植木や花に毎日水撒きも必要です。その中、少しずつお盆参り・初盆等のご依頼があります。そして、八月の一週目にお施餓鬼(せがき)を二件厳修(ごんしゅ)し、十五日までに約百件のお宅にお参りさせて頂きます。十六日からは他のお寺さんのお施餓鬼のお手伝いが続き、二十二日、兼務寺の二十四日の地蔵盆を終えてお盆行事全体が終了します。ここまできますと日が暮れるのがはやくなり、ツクツクボウシが鳴きはじめ秋の足音が聞こえてきます。そして今度は秋のお彼岸の準備を始めることになります。このように、お寺には夏のバカンスを楽しむという習慣は無く、和尚の日焼けは炎天下の作務(さむ)やお盆参りによってのものでございます。ご理解いただけますと幸いです。
さて、今月は禅問答集『趙州録(じょうしゅうろく)』のお話をご紹介致します。唐代の大和尚である南泉(なんせん)和尚に、弟子の趙州和尚が質問しました。「お悟りを開いた南泉和尚は亡くなられたらどこに行かれますか?」 南泉和尚は「お寺の門前で一頭の牛になって生まれてくるわい。」と、答えられました。佛教では輪廻転生(りんねてんしょう)を説きます。最も有名なものは六道輪廻(ろくどうりんね)です。この世の生きとして生けるものが亡くなれば、今生(こんじょう)のうちで積んだ業(カルマ)によって地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の何れかに生まれ変わるというものです。お釈迦(しゃか)様はこの六道から解脱(げだつ)する方法として佛教を説かれました。それでは、なぜお悟りを開き解脱することが出来るのに、この南泉和尚は牛に生まれ変わると言われたのでしょうか? そこを拈提(ねんてい)することが大切です。現代の日本で牛は身近な存在ではなく、スーパーでは既にお肉として売られていて、牧場に行かなければ中々お目にかかれません。一方、唐代では農家にはなくてはならない存在でした。土を耕すため器具を付けられ、来る日も来る日もこき使われるのです。また、皆さんの中に牛になりたいと思う人なんて殆ど居られないかと思います。一般的に「あなた牛のようですね」と言われますと「怠け者」「鈍くさい」という批判的な意味に捉えられます。「馬のようですね」「虎のようですね」でしたら誉め言葉に聞こえますね。実は文豪夏目漱石は芥川龍之介へ向けての手紙の中で「牛のように図々しく進んでいくのが大事です。」と書かれています。更に「我々は馬になりたがるが、牛にはなかなかなり切れないです。」と続けます。つまり、牛を「真面目な生き方の象徴」と捉えておられたのです。これをヒントにすると、南泉和尚は「コツコツ文句を言わず、愚直(ぐちょく)に励む牛の姿勢こそが、禅を修行するものにとって大切なあり方じゃ。」ということを示されたのです。「亡くなってどうなるか」では無く、「今をどう生きるか」を答えられたのです。
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