※原文は縦書きのため漢数字で表記しております。
これをしていたおかげで助かった、これをしてなかったがために失敗した。ということが多々あります。これを「明暗(めいあん)を分ける」といいます。
去年、母が救急車で運ばれ入院しました。ある日ある会議に出ていた母ですが、それが終わってから体調が悪くなり、ひどい眩暈(めまい)がして一歩も動けなくなりました。幸いにしてポケットに携帯電話を入れていたことで、私に連絡が来て駆けつけることができました。助けに行ったのは良いのですが、私には何も医療の知識が無く逡巡(しゅんじゅん)していたところ、母が苦しみながら「♯7119に電話したらどう?」と閃(ひらめ)き、そちらに連絡することになりました。症状を伝えたところ「脳出血の可能性があります。救急車をよびます。」と、症状を直接救急の方へ伝えていただき、救急車を手配していただきました。五分も経たないうちに救急車が到着し、あっという間に病院の方へ運んでいただき検査をして頂くことが出来ました。ちなみに駆けつけてくださった救急隊員さんは檀信徒の原さんの息子さんで御縁を感じました。検査の結果は脳に異常はなく、耳鼻科系の疾患であるとのことでしばらく入院して養生すれば治まる、とのことで命には別状がなくホッとした次第です。この入院劇の中にも明暗をわけたものがあります。母が携帯電話を携帯していたことです。やはり携帯電話は名前のとおりいつも携帯することが大切です。もしこの時、携帯していなかったら見つかるまで寒い中一人で臥せっていたことになります。また、♯7119を知っていたことです。救急車を呼ぶ際には優柔不断となり「よんでいいのかな? よんで迷惑になったらどうしよう?」と要らぬ遠慮をしてしまいます。このような時、素人判断をせずに相談できる番号をしっていると心強いことがわかりました。皆様、この教訓を憶えておいていただければと思います。
さて、最後に「明暗を分けない」禅問答をご紹介します。実は禅では明暗を分けずに考えます。ある修行僧が老師に質問します。「明が正しいのか、それとも暗が正しいのか、どっちですか?」 老師はそれに返答せずに無言ですたすた部屋へ帰ってしまいます。なぜ老師は何も言わずに帰ってしまったのか? それを考えるのが問題です。ここでの「明」は、「差別(しゃべつ)」をいいます。現在使われている一般的な「さべつ」の意味はここではありません。「ものを二つに分けて考える」ことです。綺麗 不細工、背が高い 背が低い、痩せている 太っている、といったものです。一方「暗」は「平等(びょうどう)」をいいます。大乗仏教では「一切の生きとして生けるものは佛様の現われである」という意味で平等と考えます。修行僧は差別が正しいのか平等が正しいのかという質問をしています。禅では物事を二項にわけて考えることをしません。差別即平等です。つまり、世の中には色んな境遇の人、姿かたちの人々がいて十人十色でありますが、一人ひとり佛様のお姿であるということです。老師は「禅を修行するものには当たり前のことである、言うまでもない。」と、このことを修行僧に示すためにあえて無言で帰られたわけです。こういったものの見方が禅の智慧です。
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