●チベット仏教が説く慈悲心

令和2年8月掲載

 ※原文は縦書きのため漢数字で表記しております。

  昨年の秋、大阪市淀川区で兼務をしております福泉寺を会場として、チベット仏教の大博士(ケンポ)であるケントゥル・ギュルメ・ドルジェ・リンポチェ師をお招きして法話会が開催されました。今回はその時のお話(要約)をご紹介させて頂きます。

 本日、この場にお集りくださった方々は、ほとんどの方が仏教徒であると思います。仏教の開祖はお釈迦様ですから、私たちにとって真正の師はお釈迦様なのです。チベットの寺には観音・文殊・金剛手などの寂静(じゃくじょう)の仏たち、それよりもっと恐ろし気(げ)な姿の忿怒(ふんぬ)の仏たち、各宗派の開祖の像など、多くの仏像がお祀(まつ)りされています。しかし仏教の源はお釈迦様なのですから、朝起きたらまずはお釈迦様のこと想い、常にお釈迦様のことを念じながら日々の生活をおくるのがいいでしょう。もし可能なら、自宅にも釈迦牟尼像や仏画をお祀りし、その前に花や線香、お供物など供え、礼拝(らいはい)してみてください。何故礼拝するのとかいうと、私たちの心に巣くっている慢心(まんしん)を退治できるからです。

 お釈迦様は初転法輪(しょてんぽうりん)の後も多くの教えを説かれました。チベット大蔵経の仏説部(カンギュル)は百八巻にのぼります。そんな広大な教えを一つの四行詩にまとめてみると

  罪はなにひとつ犯さず

  ひたすら善のみを実践する

  自分の心は完全にコントロールする

  それが仏の教えである

 初めの一行は「罪を犯すな」です。仏教では十の不善の行為をひかえるようにと説きます。十不善の第一は殺生です。お坊さんであろうと、俗人であろうと、仏弟子を名乗るなら殺生は避けるべきです。殺生とは単に人の命を奪わなければいいというものではありません。人だけでなく、どんな生きものであっても、その命を奪ったり、傷つけることは避けるべきです。また自ら手を下さなくても、人を使って殺させたり、他人の殺生行為を褒めたたえるのも罪なる行為とみなされます。
 一般的に仏教は声聞乗(しょうもんじょう)・独覚乗(どっかくじょう)・菩薩乗(ぼさつじょう)の三つの道に分類できます。また仏教とのかかわりも、比丘(びく)・比丘尼(びくに)としてのかかわり、沙弥(しゃみ)・沙弥尼(しゃみに)してのかかわり、在家信者としてのかかわりといろいろあるでしょう。でもどんな道を行くのであれ、最初の教えは「他の生きものを殺すな、傷つけるな」です。
 それよりもっと広大な心を持てる人は、他の生きものに役に立ってあげることを考えてみて下さい。私たち凡人は仏や菩薩(ぼさつ)のような勇猛果敢な広い心を持っておらず、いつでも自分にこだわってしまいます。他人を慈しもうにも、せいぜい身内や親友がよいところ、仏や菩薩のように生きとし生けるものすべてに等しく慈愛の心を注ぐなどとてもできません。
 何故、私たちは他の衆生の役に立ってあげないといけないのでしょうか? 何故、利他行を行う必要があるのでしょうか? 困っている時、誰かがあなたに救いの手を差し伸べてくれたら嬉しいですよね。チベット仏教では、誰もが輪廻転生を繰り返しており、どんな生きものでも、かつてあなたの父であり、母であったはずだと考えます。だから、どんな生きものであれ、今生の恩ある両親と同じようなありがたい存在であり、もし彼らが苦しみの中にいるなら救いの手を差し伸べるべきだと考えます。チベット仏教には「ロジョン」という心の訓練法がいくつも説かれています。これは他者への思いやりの心を、菩提心(ぼだいしん)を培うための方法です。
 利他(りた)の行をなすことが、結局は自分の幸せの源になるのです。逆に利己的な行動は最終的に苦しみとなって自分の身に降りかかってきます。利益追求型の経済によって環境破壊がおき、地球温暖化が促進され、次々自然災害が起きていることからも、このことは明らかでしょう。
 チベット暦の四月(西暦の五月か六月にあたる)はサカダワといい、お釈迦様の生誕・成道(じょうどう)・涅槃(ねはん)月であると信じられています(日本では四月が生誕、十二月が成道、二月が涅槃月)。多くのチベット人はこの月に殺生をやめ、肉断ちをして、喜捨などの善行を行い、お寺に参拝して、説法に耳傾けます。それは自らの内面を見つめる月でもあります。皆さまも、是非とも、そのような機会を持つようにしてみて下さい。(翻訳 三浦順子氏)

 さて、八月は日本の仏教徒にとっては施餓鬼会やお盆参りがあり大切な時期です。御先祖様や餓鬼の供養を通して、自らの心を見つめ、慈悲心を養う機会として頂ければと存じます。


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