※原文は縦書きのため漢数字で表記しております。
皆様は大本山萬福寺の開山堂を参拝されたことはありますか? 総門と巨大な三門を潜り、正面には弥勒菩薩(みろくぼさつ)の鎮座される天王殿がありますが、そっちにはいかずに左に折れますと、通玄門(つうげんもん)があります。門をくぐるとその先は、萬福寺の聖域である開山堂があります。開山堂の重層屋根の間ご覧ください。そこには「瞎驢眼(かつろげん)」という額が掲げられております。「目の開けていなロバ(悟りの目が開けてない者)」という意味になります。実はこの額を書かれたのは隠元禅師の師匠である費雲通容(ひいんつうよう)禅師です。日本で励んでいる隠元禅師に贈られたものです。禅宗には悪辣な言葉で貶してるように見えますが、実は相手を褒めている「抑下托上(よくげのたくじょう)」という言葉があります。実際の意味は「しっかりと悟りの眼を開いた禅僧」という意味となります。
さて、今回はこの額を書かれた師匠費隠禅師についてご紹介します。
費隠禅師は万暦二十一(一五九三)年明朝福建省にお生まれになりました。幼少期に両親を亡くし叔父さんの下で育てられました。十四歳で三宝寺にて出家し翌年には華林寺へ移ります。十八歳の時、湛然円澄(たんねんえんちょう)禅師、無明慧経(むみょうえきょう)禅師、無異元来(むいがんらい)禅師という明末を代表する曹洞宗の禅僧に学ばれました。面白いことに当時の曹洞宗は、日本の「只管打坐(しかんたざ)(ただひたすら坐る)」に知られる道元禅師の教えとは異なり、坐禅だけでなく禅問答や経論をも重視して指導をしていました。費隠禅師は湛然禅師の講義を熱心に聴講され、二十七歳の時自らも『般若心経』の解説本を出すも、湛然禅師に「いまだ力を得ず」と批評され、遂に袂(たもと)を分かちました。天啓二(一六二二)年、三十歳の時、後に師匠となる密雲禅師の語録を偶然にも閲読して「これこそ自らの師匠になる人だ」という念を持ちました。同年の秋、念願の相見する機会を得ます。密雲禅師の宗風は前回ご紹介した通り「棒喝(ぼうかつ)」ですので、費隠禅師も例外なく棒で打たれます。しかし、固い道心から決して怯(ひる)まずに、逆に棒を奪いとり今度は密雲禅師を打ちすえ「看破(かっぱ)し了(おわ)れり」と一叫びしました。これが縁となり大きく成長した費隠禅師は紆余曲折有り崇禎二(一六三〇)年に黄檗山萬福寺(福建省)において密雲禅師よりお悟りを認められました。崇禎六(一六三三)年に萬福寺の住持として迎えられ、隠元禅師を西堂職に据えました。三年の住山の後、隠元禅師に住職を譲り、崇禎十年(一六三七年)隠元禅師にお悟りの印として源流(げんる)と法衣(ほうえ)を授けました。
その後、密雲禅師が住職を務めた天童山(てんどうさん)・金粟山(きんぞくざん)・福巌寺・五山一位の径山(きんざん)等の数々の名刹より招請されました。晩年は福巌寺に移り、順治十八(一六六一)年、世寿六十九歳で遷化されました。費隠禅師には六十四人もの弟子が居り、それぞれ臨済宗天童派の禅を弘められ、その一つの流れが隠元禅師により海を渡って日本に伝えられた黄檗宗(元は臨済宗)ということになります。
最後に費隠禅師の書かれた萬福寺法堂の聯(れん)(右側)をご紹介します。「棒喝交馳国師千古猶在」。つまり、「棒喝の臨済禅の教えは、国師(隠元禅師)が今も眼前に居られるが如く永遠に伝えられてゆく」といった意味になるでしょうか。
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