●緊那羅さん

令和3年11月掲載

 ※原文は縦書きのため漢数字で表記しております。

 佛日寺本堂におられる仏像をご覧になられたことはありますか?

 正面には釈迦如来、向って右端には達磨大師、左端には隠元禅師がおられます。釈迦如来は皆様ご存じの通り仏教の開祖です。二五〇〇年前にインド(ネパール)の釈迦族の王子様としてお生まれになりました。達磨大師は禅宗の開祖です。五世紀後半に南インドの第三王子としてお生まれになり、中国にわたり少林寺に入られて面壁九年坐禅を組まれた方です。隠元禅師は我が黄檗宗の宗祖です。釈迦如来の両脇にも仏像がおられます。左が毘沙門天(多聞天)です。一人で居られるときは毘沙門天で、四天王の一尊として数えられる場合は多聞天と呼び名が変わります。帝釈天の配下として北方を守る仏教の守護神であり、また財宝の神様としても知られており、七福神の一員でもあります。脇侍の右が表題の緊那羅王菩薩(きんならおうぼざつ)です。天、竜、夜叉(やしゃ)、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、摩ご羅迦(まごらか)という、仏教を守護する八部衆の一員です。もともとインドでは半身半獣の姿をしおり、歌が上手く音楽の神様でもあります。ほとんどの方はご存じないかと思います。黄檗宗寺院でよくお祀りされる仏像です。なぜお祀りされるようになったのかそれには中国の少林寺に起源があります。
 少林寺は右で触れたとおり達磨大師が居られたお寺でありますし、少林寺拳法の総本山としても有名です。元の時代に少林寺の典座(てんぞ)で、食事の準備を手伝う一人の行者(あんじゃ)が居りました。見習いの立場なので髪の毛はそらず裸足で、いつも一本の棒を持っていました。この時代、頭に紅い頭巾をかぶった紅巾(こうきん)の賊が、全国で反乱をおこしており、少林寺もこの賊に襲撃を受けました。門より賊がなだれ込んだ時、この行者は突然三十メートルの巨人の姿に変わり、自ら「緊那羅王」と名乗りました。賊はこれを見て恐れおののき逃げ帰り、少林寺は無事守られました。僧侶達は、いままで下働きをしていた行者が緊那羅の化身であったことを知り、このことを後代に伝えるために、行者の像を作り護法伽藍の仏としてお祀りされました。このことから元代以降の禅宗寺院では、斎堂(食堂)に緊那羅像が安置される習慣が出来ました。その流れを汲み本山萬福寺の斎堂においても、佛日寺においても(斎堂が現存していた時期)緊那羅像をお祀りしているというわけです。
 実は佛日寺の緊那羅像は寺伝では「弁天(べんてん)像」として伝わっています。「弁天は女性の神様なのに、なぜ甲冑を着ていて武器を持っている男性の姿をしているのだろうか?」と、長年の疑問でありましたが、本山の緊那羅像を見ていて、佛日寺の弁天像とほとんど同じ姿をしていることに気づきまして、判明した次第でございます。
 皆様も佛日寺に来られた時は、この緊那羅像に注目してお参り頂ければと思います。


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