●幽霊飴

70.平成30年8月22日(水) 地蔵盆の一席
 演題「幽霊飴」 布教師 住職(服部潤承)


 台風の所為か、蒸し暑い日が続いております。こんなに暑いと冬が恋しくなります。逆に冬の寒い時には、こんなに寒いと夏の方がましだと勝手なことを思ったものであります。現在、こんなにも暑かったら、寒い冬の方がましで、重ね着などしたらいくらでも耐えられるものだと思っている人が多いことでしょう。 
 しかし、何時の間にか日が沈むのも早くなり、日が昇るのも遅くなってまいりました。朝早く散歩いたしておりましたら、確実に秋が来ているのに気付きます。空気が涼しくなってまいりました。秋の虫の音が聞こえてくるようになりました。草木も少しずつ色づいてまいりました。この残暑も今しばらくの辛抱であります。
 さて、佛日寺のお地藏さんは、梅が丘子供会が結成された時、前住職は地藏盆ができるように4体の地藏尊を奉安致しました。それが、横門の横にあります。
 そして、昭和57年に、初代住職慧林禅師と佛日寺開基麻田藩2代藩主青木重兼公の300回忌を記念に、水子・子安地蔵尊を当時の檀家総代の上田二郎さんが一所懸命、寄付金を集められて、見事に完成したのが、山門をくぐった左に立っている地藏尊がそれであります。37年間、風雨はもちろん、2回の大きな地震にも耐えてまいりました。その間、一回も欠かさず、地藏盆と毎月第二日曜日朝9時より水子供養をしてまいりました。
 次いで、ごく最近、平成28年に可愛らしい見守り地藏尊が渋谷高校の正門向かいに鎮座まし、保護者・地域の関係者の児童・生徒の登下校の見守りのお手伝いをしております。そして、今年になって27体のお地藏尊が東の土塀に添って林立しています。27は無難<ムナン>の語呂合わせで、「難無し」良くないことが起こりませんようにと願うものであります。


当日配付した資料


 この間、山口県で二歳になろうとする「よっちゃん」が、おじいさん家族とともに海に連れて行ってもらっていました。途中「よっちゃん」が帰ると言ったので、おじいさんは一人で帰してしまいました。しかし、「よっちゃん」は帰っていなかったのです。地域を始め多くの人が、探しました。三日後、何もなく無事なところを、ボランティアの尾畠さんに発見されたという全国に朗報が伝えられました。「無難〈むなん〉」と言うのは、こういうことであります。
 ところで、73年前ですが、日本でも「自爆テロ」のようなものがありました。飛行機に爆弾をたくさん積み込み片道の燃料だけで、敵の艦船に突撃していくものです。ほとんどが、突進する前に、撃ち落とされたようですが、多くの若者が自ら命を落としていくのは、残念で悲しいことであります。本人の意思で出撃していったことになっていますが、それは「上官の命令」とも思われるものや、生きて帰還することは、恥ずかしいというような風潮があったからでしょう。丁度、○○大学のアメリカンフットボール選手がルール違反をして、告発されました。その時に、ルール違反した選手は、監督・コーチの指示でしたのにも拘わらず、当初は本人の意思でしたものと言っていました。しかし、そうでなかったことが判明致しました。リーダーがしっかりしないととんでも無い事になります。

 本題の「幽霊飴」に入ります。
 京都の六道珍皇寺門前に一軒の飴屋がありました。或る夜、表の戸を叩く音で出てみると、青白い女性が一人立っていました。
 「えらい夜分にすみませんが、飴を一つ売っていただけませんか。」と一文銭を出して言いました。
 次の日も、また、その次の日も、同じように一文銭を出して買いに来ました。それが六日間続きます。
 「あれは、ただ者ではない。明日、銭を持ってきたら人間やけど、持って来ないなら、人間やないで。」
 「なんですねん。」
 「人間、死ぬときには、六道銭(六文銭---今のお金で300円ぐらい)というて、三途の川(地獄・餓鬼・畜生---橋・浅瀬・激流)の渡し銭として、銭を六文、棺桶に入れる。それを持って来たんやないかと思う。」
 七日目にこの女性はやはりやって来ましたが、
 「実は今日は、あし(銭)がございません。飴を一つ-----」と言う。
 「よろしい。」と銭なしで飴を与えて、そっと後をつけると、二年坂・三年坂を超えて、高台寺の墓へ入っていきました。
 そして、一つの塔婆の前で女性の姿はかき消されるように消えました。地中から赤子の泣く声が聞こえます。
 掘ってみると、女性の傍らで元気よく泣く赤子がいました。
 ここは、お腹に子供を宿したまま死んだ女性のお墓だったのです。
 中で子が生まれ、母親の一念で、飴で子供を育てていたのであります。
 この子供は、飴屋が引き取り育てた後に、高台寺の僧侶になったと言います。
 母親の一念で、一文銭を持って飴を買ってきては、子供になめさせたのであります。
 本来自分の、三途の川を渡る六文銭でありましたが、わが子の飴代に使いました。
 それもそのはず、この場所が「コーダイジ」「子を大事に」と言われる所以でありました。



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