●鐘声七条

56.平成27年3月21日(土) 春季彼岸会の一席
 演題「鐘声七条」  住職(服部潤承)

 
 十日前の3月11日、寒の戻りと申しましょうか、全国的に雪や霙が降って大変寒い日でありました。それまでは、春の到来と悦んでおりましたやさき、やはり地震と同じで揺り戻しがあるものです。
 3月11日と言えば東日本大震災から早、4年になります。死者が15891人・行方不明者2584人・震災後の体調不良や自殺で亡くなった人3194人・避難生活を送る人約229000人です。地震では助かっているのに、何と悲しいことでありましょうか。復興は掛け声だけに終わってはいないでしょうか。物から心へ早く移行しなければなりません。
 政府主催の追悼式で、天皇、皇后両陛下ご列席のもと宮城県の遺族代表・19歳菅原彩加(さやか)さんが追悼の言葉を述べられました。<失ったものは、もう戻って来ることはありません。悲しみが消えることもないと思います。しかし前向きに頑張って生きていくことが、亡くなった家族への恩返しだと思い、生きていきたいです。>
 昨年、10月に東北地方特に三陸海岸に行ってまいりました。津波対策として盛土・土を嵩上げして、津波が発生しても海水が浸入しないようにしているのを見ました。前回の地震では、津波除けの防波堤を乗り越えたり、押し倒したりして役に立たなかったそうであります。その反省もあって、土台そのものを上げることになったのでありましょう。
 ところで、高床式の家屋は日本古来の建築方法であります。風通しが良いので、夏は涼しかったそうです。虫や小動物などが這い上がらないようにカエシを付けて防いだそうです。大雨が降ろうと洪水が起きようと、床の下を水がさらさらと流れて行くだけです。『温故知新』・故きを温ねて新しきを知る、古いところから新しい智慧や真理を見つけ出すことができるものと思います。
 月参り・法事などの仏事やお正月・お祭りなどの神事がたくさんありました。それを家族や近所も交えて、また親戚も遠くから駆けつけて仏事や神事をしたものであります。飲めや歌えの大騒ぎ、奥様はいい迷惑かもしれませんが、普段の疎遠が解消できたのでありましよう。
 ところが、近頃のお葬式は実に寂しくなってきております。葬式は淋しいものに決まっておりますが、人が亡くなって淋しいのではなく、人が来なくて寂しいのであります。お葬式は、亡くなった人の代わりに、家族・親戚が生前お世話になった人にお礼の意思を伝える儀式なのであります。そして、家族・親戚・近所を挙げて見送り、後のことは助け合っていくので、心配は不要であるを呼びかけるのが、お葬式でありました。江戸時代は、村八分(仲間はずれ)になっていても火事と葬儀は手伝ったものであります。それだけ大事のものでありました。今はどうでしょうか。お財布と相談して決めてしまっています。葬儀屋さん任せにして、かえって高額になっています。一生に一回しかない葬儀を家族・親戚・近所を交えて心の籠った本当の葬儀をやってみてはいかがでしょうか。
 話は変わりますが、仏日寺の梅の花も散り始めましたが、近くの梅にウイルスが感染して梅の葉を変質させているようです。この間も伊丹の緑ヶ丘の梅林が根こそぎ伐採されました。丁度梅の花が満開で見頃を迎えた矢先に、このような殺処分の憂き目に会ってしまいました。数年前、鳥インフルエンザが流行して、鶏が何万羽も殺処分され大変心が傷みましたのと同じ思いであります。今は、仏日寺の梅林が、ウイルスに感染しないように祈るばかりであります。かつて仏日寺には松がたくさんありました。樹齢三百年、仏日寺がこの地に移転して間もなく植栽されたものでした。それが悉く松くい虫に一瞬にしてやられてしまいました。今や、最近植えた数本の松があるだけで、往時を偲ぶ面影は全くありません。在るのは山桃と楠ともちの木だけになりそうで不安は否めませんが、先ほどの菅原彩加さんの追悼の言葉は、せめてもの励みになりましょう《失ったものは、もう戻って来ることはありません。悲しみが消えることもないと思います。しかし前向きに頑張って生きていくことが、亡くなったものへ恩返しだと思い、生きていきたいです。》
 最後に、本日の本題であります「鐘声七条」に入りたいと思います。
 無門関第十六則に雲門日く、「世界恁麼(いんも)に広闊たり。甚(なん)に因(よ)ってか鐘声裏に向かって七条を披(き)る」。
 口語訳を致しましょう。雲門宗の雲門禅師が仰った。「宇宙世界はこんなにも広大無辺である。ところがどうして鐘が鳴ると、七条袈裟を着けて出頭するのか。」
 私達の精神世界は、自由自在・自由無碍(むげ)と申しますか、何の縛りも制約も束縛もありません。極端な思想を無理強いしている特定の国や地域は別として、私達の心や精神などの脳の作用は全く自由なのであります。
 ところが習慣というものは、勝手にと申しますか。無意識に行動してしまいます。あまり良い例ではありませんが、痴漢の常習犯は、自分では何も行動を起こそうと思っていないのに、何時の間にか行動を起こしてしまっていて、気が付いた時には現行犯逮捕されていたと言うのであります。
 修行の中で良い習慣を身に着けるのは大変良いことではありますが、鐘が鳴ると、何時の間に袈裟を着けているという主体性の無さは、惰性と言っても言い過ぎでないかと思います。
 山田無文老師の仰ったことをご紹介して「鐘声七条」の話を終わりたいと思います。 「人間という動物は賢いようだが、何かと意味のないことを無自覚にやっておるに違いない。鐘が鳴ったから袈裟を着るというのでは、あまりにも無自覚であり、習慣と惰性に動かされておるに過ぎない。何処に自主性が認められようか。禅の世界で、人間の行動が無自覚であってはならない」



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