●非風非幡

48.平成25年3月20日(水) 春彼岸会の一席
 演題「非風非幡」  住職(服部潤承)

 
 春のお彼岸になりました。ようやく春になりました。待ちに待った春になりました。待ち遠しい春でした。
 去る3月11日・12日両日に、ご本山で布教師会の講演会・研修会・総会がございました。 1日目講演会を端折り、そのかわりとして、東日本大震災物故者慰霊法要が大雄宝殿で営なまれると言うことで、布教師も全員で参列いたしました。 たまたまご本山に参詣にこられた方々も、東日本大震災物故者慰霊法要に参加され、不慮の死を共に悼み、悲しみを共有し、震災復興を祈りました。
 悶々とした1日を過ごした明くる日、日本全国に朗報が届けられました。 日本は狭い島国・資源の乏しい国、外交に失敗すると、すぐに兵糧攻めにあってしまします。 悪くすると、戦争に発展しかねません。 朗報と言うのは、愛知県の渥美半島沖の深さ1000メートルの地下約330メートルに埋蔵しているメタンと水が結びついて結晶化し、シャーベット状になっている「メタンハイドレード」から天然ガスを取り出すことに、世界で初めて成功しました。 日本の将来の国産燃料として大いに期待されています。と言うのは、エネルギー源を海外に依存しなくてもすみますし、危険で人体に悪影響のあるものに頼る必要がなくなると言うものであります。 ちなみにメタンハイドレードを分解すると170倍の体積のメタンガスが発生します。また、燃やした時に出る二酸化炭素は石油の約7割になり、石油よりクリーンエネルギーと言えるそうであります。
 最近、海外で日本人が巻き込まれる事件・事故が頻発しております。 平成23年から数えて25件あります。 この2月26日の発生した事故は、エジプト南部のルクソールで21人を乗せた熱気球が飛行中に爆発し、観光客ら19人が死亡しました。 その中に 日本人が4人いました。ところで、この事故で、操縦士という立場でありながら、消火作業をしないで、ツアー客を置き去りにしたことで話題になりました。 操縦士は全身に7割の大やけどを負う状況の中で消火活動は困難であったとの見方もありますが、自分だけが助かっている事には、日本人の感情に到底受け入れられないものがあります。
 また、平成24年1月31日、夕刻、イタリアのトスカーナ州沖合のジリオ島付近で客船コスタ・コンコルディアは、浅瀬に乗り上げて座礁して、死者30人・行方不明者2名を出す惨事が発生しました。 日本人43人が乗船していましたが、全員無事でありました。
 ところで、事故当時、スケッティーノ船長は、ワイン片手に若い女性と食事中でありました。また、船長は乗客より先にジリオ島に避難し、沿岸警備隊に見とがめられ、船に戻るように促されました。 このような緊急事態にもかかわらず船長が船を放棄して先に避難したことについて、船長は座礁した船の上で転び、偶然にも救命ボートの中に落ちたと、言い訳がましいことを言ったそうであります。 リーダーの資質が問われる事故であります。 身勝手・自己中心・利己主義と言う言葉があたってはいませんでしょうか。
 自分さえ良ければいいと言う昨今の風潮の中で、利他・自分の事よりも他人の利益や幸福をはかることに徹したニュースがありました。
 3月3日、桃の節句の前日のことであります。今年は例年になく雪深い北海道湧別で、地吹雪から守ろうと軽装を顧みず、娘さんを抱きかかえ続けて息絶えたお父さんの記事であります。
 漁師の岡田幹男さん53歳は、長女の夏音さん9歳を迎えに行って帰る途中、地吹雪に遭遇したため乗っていた軽トラックを乗り捨て、歩き始めます。 農業用のドーム形倉庫の入り口付近でとうとう歩けなくなってしまいました。 お父さんは自分のジャンパーを娘さんにかけて体半分が雪に埋まった状態で亡くなってしまいました。 岡田さんは奥さんを数年前に亡くし、娘さんと2人暮らしをしてしまいました。 朝早く漁に出ることが多く、食事の用意はもちろん、家事全般をこなした子煩悩なお父さんでした。 きっと奥さんの分まで、愛情を注がれたのでありましょう。 この娘さんは、いつまでもお父さんの事を尊敬し、誇りをもって生きて行くことと思います。
 自己犠牲の最たるものが、自分の命とひきかえに、他を生かすところにあります。 このニュースは利他行の極地と言わざるを得ません。
 前置きはこれぐらいにしまして、本題の「非風非幡」に入りたいと思います。
 風がお寺の幡(旗)をなびかせていました。 その下で、2人の僧が喧々諤々の論争をしています。  「あれは幡が動いている。」
 「いや、そうでなくて風が動いている。」
 激しい論争の最中、六祖の慧能禅師が通りかかって、
 「動いているのは、あなたたちの心ではないか。」
と、言って去っていきました。論争していた二人の僧は、その言葉を聞いてドキッとしました。
 中国宋の時代の無門慧開禅師(1183−1260)の公案集『無門関』第二十九則に出ています。
 本則 六祖、因みに風刹幡をあぐ。二僧有り、対論す。一は云く、「幡動く。」 一は云く、「風動く。」 往復して曽て未だ理に契わず。祖云く、「是れ風の動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、仁者が心動くのみ。」 二僧悚然たり。
 とるにたらない事で言い争いするよりも、もっと広大深遠なものを見なさい。
 六祖慧能禅師は、二人の僧が外界の様相にとらわれて議論をしているのを見て、
 「仏法の本質は。外界の風や幡にあるのではありません。自己の心に向け、究明する、『己事究明』にあります。」と言いたかったのであります。
 ところが、評唱で無門慧開禅師は、
 「是れ風の動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、是れ心の動くにあらず。いずれの処にしか祖師を見ん。若し者裏に向かって見得して親切ならば、方に二僧、鉄を買って金を得るを知る。」
と、真骨頂が述べられています。
 風が動くのでもなければ、幡が動くのでもありません。まして、心が動くのでもありません。それでは、六祖慧能禅師が言いたかったことはどう言うことでしょうか。もし、そこをしっかり知りつくせたならば、この二人の僧が、鉄を買おうとしたものの、予期もしなかった金を手にしたようなものであります。
 風・幡まして心が動くのでもありません。観念化・概念化・抽象化した言葉のあそびをいくらしても、物の本質をとらえることができません。
 ありのまま、現前している世界がそのまま真実の姿であって、口はばったい講釈を一切つけ加えないところにあります。それなのに、ああだ。こうだ。と講釈するのは、分別そのものであります。空理空論をひけらかすのではなく、現状認識をしっかりするほかありません。「雀はチュン・チュン、烏はカア・カア」、雀はチュンチュンと鳴きますし、烏はカアカアと鳴きます。赤い花は赤く咲きます。緑色の柳の葉は緑色に芽吹きます。とりとめない議論をして、ありのままの状態をゆがめてみてしまい、それが真実と錯覚してしまうことを戒めているように思います。



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