●350年前

43.平成23年9月23日(金) 秋季彼岸会の一席
 演題「350年前」  住職(服部潤承)

 
  台風一過、随分秋らしくなってまいりました。この間までの厳しい残暑が嘘のようでございます。
 今年は水難の年でしょうか。東日本大震災では、多くの方が津波で亡くなりました。各地で台風の大雨で、山崩れや河川の氾濫がありました。3月11日の津波と少しも変わらない光景がテレビで映し出されていました。あらためて、水難に遭われました皆さまにお見舞い申しあげるとともに、犠牲になられました方々のご冥福をお祈り申し上げます。
 さて、本日のテーマは、「350年前」と言うことでお話しいたします。
 350年前と言えば、万治4年で改元して寛文元年。西暦で言いますと、1661年であります。
 世界人口は約5億人でした。19世紀前半には10億人、1999年に60億人を超えてしまっています。現在の世界人口は67億人に迫っており、350年前の10倍以上になっています。今後、増加が予想され食物・エネルギー・資源で重大な局面を向えることになります。
 デカルトは350年前、「我思う。ゆえに我あり。」と言いました。人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求しようと意味であります。
 台湾ではオランダ艦隊が台南の安平(アンビン)に上陸、築城して、オランダに支配されていましたが、1661年明朝の鄭成功によって解放されます。中国茶が栽培され、品質の良いものが収穫されるようになりました。ちなみに、日本での煎茶が誕生したのが1654年であります。
 竹島領有権は今や国際的な問題になっています。1661年、江戸幕府が伯耆藩(鳥取県)の大谷・村川両家に竹島領有の権利を与えて、日本海の漁業拠点になっていました。
 江戸城のある築地一帯は一面の海でした。江戸城増築の際に掘られた堀の揚げ土で埋め立てられました。埋め立ては全国の諸侯70家に、1千石に1人の人夫を出させ、埋め立て後、その代表者の名をとり、尾張町・加賀町等と名付けられました。70年後4代将軍徳川家綱公が手掛けた最後の埋め立て工事は困難を極めました。ある夜のこと海面に光を放って漂うものがあり、船を出してひきあげると立派なお稲荷さんの御神体でした。その地(波除稲荷)に社殿を造り御神体をお祀りしました。それからというもの埋め立て工事は順調に進み、万治2年(1659年)に完了しました。また同年には、江戸城本丸の造営が竣工しました。赤穂城は1648年から13年の歳月を経て1661年に完成しました。
 地震は1662年の6月16日に、マグニチュード7.3から7.6の震度で、山城・大和・和泉・摂津・丹後・若狭・近江・美濃・伊勢・三河・信濃に発生しました。同年の10月11日に、マグニチュード7.5から7.8の震度で、日向・大隅に発生し日向灘沿岸に被害をもたらしました。日向灘沖地震とされる外所(とんところ)地震は未明に発生し、激しいしい揺れと高さ5メートルの津波が襲いました。地盤沈下によって現在の宮崎市熊野の沖にあった外所集落は海の下に沈み、15人が犠牲になりました。供養碑を管理する西教寺の井上了達住職は、「地元民は約50年ごとに供養祭を営み、石碑を建ててきた。石碑には、自然の脅威と共存を説いた文や不戦を唱える経が記されている」と語り、防災意識を喚起しているとのことであります。
 水戸藩初代藩主徳川頼房公が1681年7月29日に死去し、同年8月19日、水戸藩28万石2代藩主に徳川光圀公が就任、水戸黄門として親しまれました。明歴3年(1957年)紀伝体の歴史書である『大日本史』の編纂事業に着手します。水戸黄門と言いますと、諸国漫遊がイメージされますが、実際は日光・鎌倉・金沢八景・房総など関東地方の範囲を出なかったようであります。
 1661年に日本最初の藩札が福井藩で発行されます。福井藩の藩札発行後、全国で244の藩、14の代官所、9の旗本領で藩札が発行されました。福井藩の藩札には、「紙幣を侮るなかれ、不思議にも心を邪にする。僅かなことで遂には目がくらみ尽き果ててしまう。云々」とあり、お金の虜にならないように戒めています。また、スウェーデンのストックホルム銀行がヨーロッパ最初の紙幣を発行しました。
 1661年3月25日付の江戸評定所(現在の最高裁)判決文に、「上野国碓氷郡磯部村と中野谷村裁断之覚」の添付図に、2か所の温泉マークが記入されていました。これが日本最古の温泉記号であることがわかりました。日本の7万軒の温泉旅館ホテルが使用している温泉マークの起源といえましょう。
 1661年に有名な2人の俳人が誕生しました。1人は宝井其角で、松尾芭蕉の門に入り、蕉門十哲の第一の門弟と言われていました。初めは母方の榎本姓を名乗っていましたが、宝井と改めます。永年の飲酒が祟ってか47歳の若さで亡くなりました。有名な句に、「夕すずみ よくぞ男に 生まれけり」があります。
 もう1人は上島鬼貫で、伊丹に生まれ元禄期の上方を代表する俳人として活躍します。豪快で自由気ままな句風は『伊丹風』と呼ばれ、「東の芭蕉、西の鬼貫」と与謝野蕪村は称えました。有名な句に伊丹を読んだ「月なくて昼は霞むや昆陽の池」があります。
 他に文化人として活躍したのは、狩野探幽が59歳、渋川晴海が22歳、松尾芭蕉が17歳でした。
 現在、最も礼儀正しい座り方とされているのが正座であります。正座をするようになったのが、3代将軍徳川家光公の時代からで、茶の湯も関係し、膝の上にのせた右手を下に、左手を上に重ねます。右手は武器を使う手で、その右手を左手で覆い隠すことで相手に警戒心を抱かさないようにする武士道の精神からきたものであります。
 江戸時代の粋な仕草があります。「傘かしげ」は雨の日に互いの傘を外側に傾けて濡れないようにすれ違うことです。「肩引き」は道を歩いていて、人とすれ違う時左肩を路面に寄せて歩くことです。「うかつあやまり」は例えば相手に自分の足を踏まれた時に、「すみません、こちらがうかつでした」と謝ることで、その場の雰囲気をよく保つことです。「七三の道」は道の真ん中を歩くのではなく、自分が歩くのは道の片端3割にして、残りの7割は他の人のためにあけておくことです。「三脱の教え」は初対面の相手に「年齢」「職業」「身分」を尋ねないことです。「わたしは、あなたの歳や仕事や地位などは関係なく、あなたと言う人物とつきあっているのですよ」ということを示します。
 350年前の出来事を中心にお話をしてまいりましたが、この佛日寺はどうであったのでしょうか。
 寛永7年(1630年)、麻田村東方天王山山麓に佛日寺の前身の松隣寺が建立されます。当時の住職は、仙渓和尚でした。ところが、承応3年(1654年)に現在のこの地に移し松隣寺を拡充しました。万治2年(1659年)、富田村の普門寺より隠元禅師を招き、摩耶山佛日寺と命名していただきました。そして、寛文元年(1661年)、隠元禅師の法嗣、慧林禅師を佛日寺の第1代住持とし、寺領200石をいただき麻田藩主の菩提所としました。当時は、境内2町6反3畝23歩を有し、本堂の他に29字を有する大伽藍でありました。
 一方、隠元禅師はどうされていたのでしょうか。
 寛永14年(1637年)10月1日、古黄檗山萬福寺の住持を勤め、正保元年(1644年)3月、退山されます。2年後、古黄檗山萬福寺に再住されます。
 承応3年(1654年)6月21日、長崎の興福寺の逸然性融禅師の再三にわたる招きにより、3年の約束でアモイを出航し7月5日、長崎に到着されます。随行者総数30名でありました。
 明歴元年(1655年)9月6日 龍渓禅師の招きにより、富田村の普門寺に晋山されます。
 万治元年(1658年)11月1日、龍渓禅師らを伴い、4代将軍徳川家綱公に謁見されます。普門寺に戻った隠元禅師は、大老酒井忠勝公に帰国の意志をもらされます。
 万治2年(1659年)5月3日、大老酒井忠勝公は隠元禅師に尺牘を送ります。その内容は、将軍徳川家綱公が京都に一寺建立のために寺領を与えるという趣旨でありました。そこで、隠元禅師は、6月18日、日本に留まることを決心されました。
 寛文元年(1661年)5月8日、寺領400石と境内9万坪の新黄檗山萬福寺の造営が始まります。隠元禅師は大老酒井忠勝公に、伽藍完成前に晋山したい旨の意志を示され、同年8月29日、新黄檗山萬福寺に晋山されたのであります。
 当山にとっても、記念すべき350年になっております。



法話TOP